東京

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. . . 倦怠の色が全身を膜のように包む中でも、私は変わらず彼と会い続けた。 彼に会えば、この空虚な心に色が付く。 彼に愛されていると幸せの確認作業のようにセックスをして、愛してるという言葉を催促すれば、幸せは確信に変わる。 彼の甘い言葉と責め立てる体は、私の空洞の中にすっと入り込み、満たし、色をつける。 彼に染めて貰った私は、暫くの間、その色をちぎって誤魔化しながら生活する。 嫌なこと、辛いこと。 心がモヤモヤと闇を帯びると、黒くなりかけた心に色を落として鮮やかな色に変えた。 彼の色が薄まって、また空洞の壁が顔を出し始めると、彼に会わなきゃと不安になって、彼に会えないことに恐怖すら覚える。 お願い、奥さん、今は帰って来ないで。 今日会えないと、私おかしくなりそう。 少しの時間だけ彼を貸して。 そんな願いを心で口にすると、せっかく大切に使っていた色たちが一気に外に出て行ってしまう。 わたしはそれを急いでかき集めて、慌てたように電話を取るのだ。 「....ねぇ、今夜....会える....?」 . . . . . . そんな不思議な感情の渦巻きに身を委ねる日々でも、彼と会っていれば良い出来事も多かった。 金曜日の夜。 スイートルームに宿泊する客だけが入れるホテルのラウンジで、ホテル雑誌を何気なく捲っていた時、このホテルの系列が先月京都にオープンしたという記事が目に入った。 高級ホテルながらも京都の景観に合わせたモダンな建築と、落ち着いた雰囲気がとても素敵で、隣に座っていた彼に何気なくその記事を見せた。 「素敵じゃない?ここ」 「京都?」 「そうみたい。鴨川沿いだって」 彼は私の顔をチラッと見ると、 「行こうか」と微笑んだ。 "いつか一緒に行こう"という意味だと思っていたのに、彼はこれから行こうなんて言い出してホテルのフロントに電話をすると 「金はこっちの分も払うから、京都の方にあるスイートルームを月曜日までとってほしい」と伝えた。 「今から行くの?」 「紅葉の時期だし、京都に行くならちょうどいいだろ」 彼はスイートルームが取れた連絡を聞くと、そのまま東京駅にタクシーを走らせ新幹線のチケットを取った。 グリーン車に乗りながら自分の格好を見れば、あまりの身軽さに不安になる。 私は着替えどころか、化粧品ひとつ持っていない。 小さな鞄にスマホと財布。 歩いて観光するには不向きな靴。 これから旅行をする人とは思えない風貌だ。 「ねぇ私、何も用意してきてないけど...」 「国内で旅行するのに何も必要ないだろ。何かいるものがあるなら全部向こうで買ってあげるよ」 「でも来週にしてくれれば、ちゃんと用意してスーツケースで来たのに」 「来週に会えるかなんてわからないし、紅葉だって終わってるかもしれない。先延ばしにしたらダメだ。行ける時に行かないと」 「だとしても、いきなりすぎない?」 「珍しく君が行きたいなんて言うからさ。空いてなければやめたけど、部屋も空いてるとくれば、それは流れだろ?」 私が行ってみたいと言ったことから始まった弾丸の京都旅行だったけれど、真っ赤に色づく紅葉は本当に綺麗だったし、新しくオープンしたホテルは外観もさることながら接客も素晴らしく、夜、鴨川の涼んだ空気を窓から吸えば、秋の夜風が気持ちよく心にしみた。 彼もいきなり始まったこの旅行を心から楽しんでいたようで、珍しく自分から此処に行こうと、私をホテルから連れ出した。 どうしても君を連れて行きたいと言った産寧坂(さんねんざか)にある熟成鮨の店は、3年先の予約まで埋まっているような人気店で、アメックスのコンシェルジュさえも"その店は今日の明日というのは難しい"と断ったのに、彼は自ら電話をかけ自分の名前を出すと、営業時間より前に店を開けさせて私を連れて行ったりした。 私はここで食べたお鮨を超えるものに、未だ出会った事がない。 カウンターの前に一貫ずつ並べられる口の中でとろけていくそれらを美味しいと頬張れば、彼は幸せそうに私の表情を見ながらお酒を嗜んだ。 そして彼との東京での過ごし方が変わり始めたのも、この頃だ。 今まではホテルで会うばかりだったけれど、以前より外で過ごす時間が多くなった。 というのも彼は愛人である私を、どこにでも連れて歩くようになっていたからだ。 そこに躊躇も遠慮も何もなく、大学の先輩の結婚式にまで私を連れて行き、会う人すべてに僕の妻だと紹介したほどだった。 彼の自慢である私はどこにいても注目の的で、私が褒められる度に満足そうに微笑む彼の横顔を見れば、幸福になる前ぶれの風が吹いている気がした。 この頃、彼の周りにいたのは私の事を奥さんだと信じて疑わない人達ばかりだったように思う。 それくらいに彼はどこにでも私を連れて行ったし、彼が私を色んな人に会わせるのは、かなり希望的な事だと思った。 この日々はまるで将来訪れる離婚後の生活を味わっているようだったし、私を認知されたところにはこの先、奥さんを連れては行けないわけだから、それは離婚をしてくれると私の願望を濃くさせ、愛人からの解放の予感に心が緩んだ。 . . .
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