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プロローグ
午前0時__
私はいつものバーで彼を待ってる。
上品な形に割られた氷を唇に当てながら、私はロックのウイスキーを飲み干した。
土曜日の夜のせいか、薄暗い店内ではいつもより多くの客が酒を嗜んでいる。
時計の針が頂上である12を指したのを確認し、私はもう一度、入っていないグラスを口元へと傾けた。
「強いっすね、酒」
そんな事を少し笑いながら言ったこの人は、由人さんというらしい。
女1人バーで酒でも飲んでいれば、男の1人や2人隣に座るというものだ。
「昔は呑めなかったんですけどね」
そう。
私は彼に会うまで、ウイスキーなんて呑んだこともなかった。
「男の影響?」
「そうですね。今、待ってる彼に教わりました」
私は指でグラスの中の氷を、ゆっくりと回した。
「由人さんは、よくいらっしゃるんですか?」
「ここ?いや、俺はあれが目当てで」
そう由人さんが指差したのは、真ん中に置かれたグランドピアノだ。
そういえばホテルの52階にあるこのバーは、週末だけジャズピアニストの生演奏が行われると聞いたことがある。
私が来た頃にはもう終わっていたけれど、その名残りで店内にはいつもよりお客さんが多いみたいだ。
「由人さんも弾かれるんですか?」
「まあ趣味程度に。聴く方が好きなもんで」
「音楽がお好きなんですね」
「だいぶ好きですね」
自分の好きなものを目を輝かせてちゃんと好きだと言える人は、とても心の綺麗な人だと思う。
今夜も有名なジャズピアニストが来たそうで、知ってます?とチラシを見せてもらったけれど、私は全然わからなくて「音楽には疎くて、ごめんなさい」と言ってその紙を返した。
「そちらは彼氏、待ってるんですよね?」
「はい」
「俺が隣にいたら、嫌な顔でもされますかね?」
由人さんは少し笑って、私に確認するように目を合わせた。
「いえ、大丈夫ですよ。嫉妬なんて、彼は人生で一度もしたことがないと思うので」
「一度も?」
「はい、人に執着がないんです」
「へぇ」と言った由人さんの横顔は興味がなさそうな話し方とは違って、私と話していることを楽しんでいるようだった。
「敬語じゃなくていいですよ。私、年下でしょうし」
「そう?じゃ遠慮なく」
由人さんは自分のグラスを一気に流し込むと、バーテンダーに「同じの2つ」と空のグラスを指差した。
「んで、話戻るけどさ。自分の女に執着しない男なんていねぇと思うんだけど?」
「いるんですよ?世の中には。むしろ、私のことで怒ったりするところを見てみたいくらいです」
「なんだよ、それ」
由人さんは、さっきよりも大きく笑った。
「それにしても、随分と長く待たせんのな」
「そうですね」
「こんなところで待たなくても、彼氏の家で待ちゃあいいのに」
確かにもう2時間はこうしてる。
私が来た時からこの店にいた由人さんが言うのも無理はなかった。
忙しい人なので。とか嘘をつこうかと思ったけれど、どこか口の固そうな雰囲気と、ここはもう今夜しか会わない相手だからと、真実を告げることにした。
「わたし、愛人なんです。」
その言葉に由人さんは、チラッとこっちを見ると「......そりゃあ。意外」と空のグラスを傾けた。
「そう見えないですか?」
「ああ。なんていうか。いや、俺も仕事柄いろんなやつ見るけど、愛人やってる女ってどっか腹が見えねぇし、嘘言ってんだろうなぁって感じで男あしらってるイメージだからさ。タイプがちげぇなぁと思って」
と、もう一度、私の顔を見た。
「そういうのってさ、どう始まんの?」
「由人さんも、不倫に興味がありますか?」
「いや俺は結婚してねぇし、不倫したいとは思ったことねぇけど。ただ、どうやって愛人関係になりましょうってなんのかなと思って」
「純粋な興味なんですね」
「まぁ、そんなとこだな。答えたくないなら全然。いいんで」
私はこの退屈した時間を、話す事で使えるならと愛人生活のこと行きを話すことにした。
普段なら絶対に話さないのに、初めて会ったとは思えないほど由人さんは話しやすい人で。
それでいて、この短くない愛人生活を語っても、この人になら馬鹿にされないような気がした。
私はバーテンダーに差し出されたロックグラスを受け取ると、懐かしむように少し息を吐いた。
「あれは、私がまだ新入社員で。出版社に勤めはじめた時の事なんです。」
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