親友への手紙

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親友への手紙

 歴史好きをこじらせすぎて、火のない処にもいろいろと怪しい煙を見出すようになりました。  以下、ただの行き過ぎた想像です。  ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンのサイトで、父帝崩御後の1250年から戦死する1266年までのマンフレディの動向を当時の年代記や公式記録、文書から類推し、時系列に列挙した報文「14 Anhang V: Itinerar und Regesten Manfreds (IRM) 1250- 1266 (mit Fälschungen und Deperdita) 」を見つけました。  全然、まったく、皆目読めないドイツ語に限ってこんなすばらしい文献があったりします。  彼の妄想創作歴史小説(♂×♂)を書いていたあの頃にこれがあったらと残念でなりません。    で、DeepLで読んでいると、下の記述を見つけました。   「1250-1266年の間(つまり時期不明)、親友に、息子の死に哀悼の意を表す手紙(ラテン語)を書いている」  マンフレディの息子で早世した子はいないはずで、だとすれば自身の悲しみではなく親友の息子の夭折に哀悼の私信を出したのでは…と思いつきました。    親友ってどこのだれ、ひょっとしてテバルド・アンニバルディのことか!?(p.10参照)と色めき立ってしまいましたが、残念ながらこれ以上の情報はありませんでした。    この報文は、宛名が判っていれば「○○宛て」とその人物の名も必ず書いています。  ところが「親友」としか記載がないため、おそらくですがマンフレディは相手の名を明記しているのではなく“最愛の友へ”“心許した君”といったような呼び掛けをしており、そこから「親友」宛てと類推しているのかもしれません。  お互いにいちいち名前を書かなくても判るくらい気心の知れた相手であれば、たしかに親友でしょう。  幼子や少年の夭折も珍しくなかった中世とはいえ、子に先立たれた親の悲しみは癒えるものでも、割り切れるものでもありません。友のために多忙を縫って私信をしたためたマンフレディは優しい人だと思うのです。  手紙はどうやらパリの国立図書館に所蔵されているようですが、このように人柄が垣間見える書簡が現代まで残っているという事実に、本当に生きていた人だったのだな…と感動しますし、ファンとしても歴史好きとしても感慨深いものがあります。   【妄想】  非常に個人的な妄想ですが、マンフレディは左右でいえば受けの人だと解釈しています。  当時は血を繋ぐための政略結婚が当たり前でしたから、攻めが結婚して子供を持とうがマンフレディは気にしなかったどころか、可愛がったかもしれないな、と想像を膨らませています。 【追記】  同じ報文の別ページに、1265-66の間にマンフレディが“Typaldus Petrus de Anibaldo”の亡くなった息子の乳母たちに衣服を作る費用を云々…とあります。  まだ根拠は掴み切れていませんが、TypaldusはTebaldo(テバルド)のラテン語名ではないかと。  だとすればやはり「親友の亡くなった息子」はテバルドの子供だった可能性が高くなりますし、彼は地元のローマに妻子か子供を残してシチリアに滞在していたことになりそうです。  ローマのほうが実家の権力がより確かで、さらにシャルル・ダンジューとの決戦が迫っていた時期ですから、家族の身の安全のためだったのかもしれませんが、それにしてもマンフレディに対する友情というか忠節がすごい男性ですね…。
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