最近の史学界

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最近の史学界

 本当に近年になってからですが、マンフレディに関する再検討が海外の中世史学界で進んでいるみたいです。    とにかく彼については昔から評価がばらばらで両極端なのです。  結果的に甥から王位を横取りしたと見なされたこと、結果を知っている後世人があとからいくらでも言える話ではあってもアンジュー伯を斃す好機を逃し、無謀ともいえる敗死を遂げて王朝を護れなかったこと、教皇庁のプロパガンダが長らく尾を引いたことなどから「優柔不断」「父と違って才能がない」「決断力に欠ける男」と非常に厳しい見方をする歴史家が後を絶たず、一方でダンテの影響により「悲劇の運命に敗れた美青年王」という美化も大きく、もう一方では海外との交渉術などから「十三世紀のカヴール」「彼の現実主義は当時にはそぐわない。早く生まれすぎた」と賛辞を送る歴史家もいたり。  さすがに彼の教養、美貌はあちこちに記述が残っているため誰も否定できず、「知識人」「美男」という評価だけは不変ですが、その他は茫漠としていたのです。    それは彼の行動傾向に一貫性がないこと、1250-1258の登位まではかなり頑張っているのに登位したとたんに動きが鈍くなったのが一因でしょう。  とはいえ、執筆者が教皇派か皇帝派かで記述が180度違いますし、治世も短い上に残った書簡や公文書も贋作が混じっていて、さらにアンジュー伯の治世以降はマンフレディの痕跡を塗りつぶすべくかなりの国内文書が誇張されたり破棄されているはずで、このあたりが“わかりにくい性格や行動”に影響を及ぼしていると思われます。  結局のところは読んで分析する側の考え方次第なのですが、これらのバイアスをなんとか排除しようという試みは大歓迎です。  私なりの想像だと、彼は重病を患って以来体調が不安定だったのかなとか、徳川家康ばりに影武者説を思いついたりと、荒唐無稽な原因を考えています(ランチア家の親族が周囲に多く侍っていたからには、彼に似た美形は調達可能だったでしょうし)。  妄想を詰め込んだ自作小説では架空の存在である親友が1259年のペラゴニアの戦いで落命して以来、良き助言者と恋人の両方を失って徐々に生への意欲がすり減って行ったことにしていますが…。    「カセルタ伯が裏切ったのは、マンフレディの妹である妻が美形の実弟に恋してしまったのが原因だったりして」と昼ドラ妄想していたら本当にそういう俗説があるとランシマンで読んでひっくりかえって以来、事実は小説よりも奇なりをかたく信じております。  この説にからめたバイロンの「マンフレッド」の話はまた改めて。
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