中世最後の王家

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中世最後の王家

 「The Norman Kingdom of Sicily」という本があります。  1992年にD.Matthewによって書かれた史書ですが、この本は出版当時としては珍しくマンフレディの立場に同情的で、擁護に熱意が籠っています。  このたび読み返してみると、歴史家によってこうも見解が違うのかと改めて驚かされます。  私の解釈に近いこともあり、ご紹介します。  Matthewの主張として、マンフレディが最終的に失敗したのは ・彼が最後に裏切られたのは、彼の性格の弱点(慎重さと冷酷さ?)に一端はあるだろうが最大の原因ではない。裏切ったバローネたちの、後先考えない利己主義によるものだ ・彼は父亡き後、俺が俺がと権利を主張していない。嫡兄のコンラートが亡くなって幼児コンラディンが遺され、シュタウフェンが教皇庁に呑まれかかってようやく皇帝党の代表らしく動いている。つまり一族が滅亡寸前の状況に陥ったことで、成年の家長として立たざるをえなかったのだろう。彼は周囲の期待に応え、皇帝家のトップとしてふるまう以外に選択の余地はなかった(一言一句完全同意) ・マンフレディはエジプトとも交流し、アラゴン王国やエピロス公国と姻戚になり、地中海でもトップクラスの支配者になりつつあった。その勢力に教皇庁がビビって恐怖にとりつかれた ・もともと教皇庁は豊かなシチリア王国の乗っ取りがオートヴィル朝からの悲願。マンフレディが庶子あがりであることに目をつけ、あちこちの国に応援を頼み、教皇庁を破門者の脅威から守れとけしかけた ・彼の敗死の最大の原因は、教皇庁がついに彼の王権を認めなかったことだ。フランスの聖王ルイ九世さえマンフレディとの和解を勧めているのに、そのルイ王に嘘を吐いてまで弟アンジュー伯の派遣をしぶしぶ許可させたほど教皇が執念深かったからだ ・マンフレディは「教皇庁としてもシチリア王国と和解する方が楽で安全なはず、フランスやイギリスを引き入れれば自らがどうなるか判っていないはずがない」とたかを括り、欧州全土から借金をしまくってまで軍資金を掻き集めた教皇庁の自暴自棄パワーと憎悪を理解していなかったのだろう。両者がすれ違うのは当然の帰結だ(つまり彼は教皇庁がこうもアホであると理解していなかった、と言いたいのか?) ・なりふり構わずアンジュー伯を引き入れて勝利した結果、教皇庁はフランスの介入を許すようになり、腐敗と弱体化を招いた ・世の歴史家はマンフレディが敗れたことを個人的な不幸とスルーしがちで、彼の影響力(=シュタウフェン朝)がイタリアから消滅したのち、都市国家文化が花開いたことをよしとしている。しかしそのせいでフランスがシチリアを支配し、最先端の華やかな王国だったはずの南伊は著しく衰退した。フランスがこれをきっかけに教皇庁をも掌握するに至り、シチリアの晩鐘事件もイタリア全土が海外勢力に介入される端緒になった ・つまりシュタウフェンが滅びたことでドイツとイタリアの発展がおおいに遅れて近代まで影響しているというのに、マンフレディの死をスルーする歴史家たちは、ベネヴェントの敗戦がヘイスティングズの戦いのように後世に及ぼした重要性を判っていない(このあたり、作者はちょっと憤り気味)  列挙してみると、相当にマンフレディ寄りの論調です。  ノルマン朝からの歴史を追ってきた著者としては、アンジュー朝以降の衰退にがっかりせざるを得なかったのでしょう。ノルマン王女の血を引くフリードリヒとマンフレディの時代までは、たしかに両シチリア王国は輝いていたのですし、ノルマン=オートヴィルの血を引かないよそ者のアンジュー伯が旧文化の継続に敬意を払う理由も、必要もなかったのですから。    この本の締めくくりとなった一節を、拙訳であることをお詫びした上で引用しておきます。 「剣で勝ち取られた王国の将来が、野における決戦で決着を付けられるのは何ら不穏当なことではない。1156年のベネヴェントにおけるグリエルモ1世以来、存亡を賭けて自ら戦わねばならなかった王はいない。戦闘で殺された王もいない。マンフレディの無謀なまでの勇気が賞賛されたのは単なるロマンティシズムではない。彼(マンフレディ)は王国を護るためならば死も厭わず、偉大なノルマン人先祖の遣り方を倣った、自身の尽力による勝利か敗北を選んだのである。  彼は祖先にふさわしい豪胆な若者であり、彼の王国は以後、その始祖に値する統治者を得ることは二度となかった」 ――D.Matthew,The Norman Kingdom of Sicily,Cambridge 1992  マンフレディがまさしく最後の継承者であり、以降のアンジュー伯、マンフレディの孫たちはシチリア王と名乗りはしても“偉大な両シチリア王国の後継者”とは呼べないということです。    いつの世も、偉大でない創始者はいません。  その継承こそが難題中の難題であることは歴史が証明し続けています。  興隆はいつか滅亡への道を辿ることも。  教皇庁が存在するイタリアに拘泥してしまった時点で、遅かれ早かれシュタウフェンは滅びていたとファンの私でも思います。それがマンフレディの代に起こったというだけで。    知識人で温厚、寛大と語られながら一方で暗殺という手段をしてのけたマンフレディを、イタリア人史家たちは「解釈が難しい人物」と語りますが、私自身はそこまで不思議なことではないと感じます。シュタウフェン家の代々の支配者も似たエピソードを残していますから、いわば一族の男子特有の性格と捉えています。  その苛烈な血によって皇帝冠を得て国を支配し、イタリアに執着し、教皇庁との死闘に敗れた彼らが「中世最後の王家」「もっとも中世らしい王家」と呼ばれているのも、なんだか判る気がするのです。
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