火のない処に煙を立てる その2

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火のない処に煙を立てる その2

 マンフレディがこれだけ美青年ならその手の噂もあったのでは…とやましい気持ちで調べたことがあります。  が、残念ながら彼にはそういう噂はなく、代わりに父帝フリードリヒ二世が「男色家」とアラブ側に証言された文献が出てきました。  愛人と庶子の多さを知っていたので「え、まさか!?」と意外でしたが、まあこれだけ東洋人が近くにいたら染まるよね、小姓だって美形揃いのはずだし好色家だし手を出したんだろうな…と気を取り直しました。  そして実は帝以外にもう一人、意外な親族が引っ掛かりました。  コンラート四世の遺児コンラディンと彼の友人、バーデン伯フリードリヒです。  伯は三歳年上の幼馴染で、忠実な友としてコンラディンとイタリアまで赴き、シャルル・ダンジュー伯にコンラディンと一緒に処刑されたのですが、この二人の友情や別れの様子がかなり親密だったようなのですね。  英語版wikiには「together with the inseparable Frederick of Baden」(切っても切れぬバーデンのフレデリックと共に)とあるように、どうもその手の感情込みの友情と暗に解釈される向きもあったようです。    マンフレディに殉じたテバルドにせよ、このバーデン伯にせよ、騎士道精神に基づく忠誠心が根本だとしても、やはり“生も死も共に”と思えるのは相当な覚悟と情がなければできないことだと思うのです。  崇敬や忠節の究極の形といってしまえばそれまでですが、彼らの絆の強さは限りなく恋愛に近いものだったのではと個人的には確信しています。  バローネに裏切られたことで人格面も貶められることがあるマンフレディですが、バローネが寝返るのは父帝時代以前からの風土病です。後世の教皇派年代記作家さえも、よくやったと称賛するどころか「裏切るとはありえない」と非難したということは、マンフレディに背叛される理由はそこまでなかったという間接的な証言になりはしないでしょうか。  もっといえば、テバルドがローマ教皇派の雄たる実家を捨ててまでシチリアに滞在し、戦場で命を賭して親友を守ろうとした行動こそが、少なくとも親しい人にとってはマンフレディは非常に魅力ある人物だったという証拠だと思っています。    ちなみに先帝死後、国内平定中だったマンフレディと対峙したオッタヴィアーノ枢機卿が、ただ軍陣を構えて睨み合うだけでマンフレディを先制攻撃しなかったばかりか、教皇庁に不利な手打ちを行って引き揚げたことから「枢機卿は若い皇子に著しい好意を抱いているようだ」と非難されたとか。  この“好意”という表現は「若造だからと情けを掛けるのか」という軽蔑の意が近いのでしょうが、お互い既知の仲だったという通説にのっとってよこしまな解釈を加えれば、おじさま枢機卿が二十歳そこそこの花の盛りの美青年に美声で語り掛けられ、取り込まれてしまったとすれば面白いなと。  ランシマンではないですが、マンフレディは自分の優れた容姿を自覚しておおいに利用していたはずなので、彼の美貌にぐらついた有力者は絶対に何人かいただろうと妄想しています。
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