またもや

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またもや

 イタリア人史家の最近の史書を読んでいたら、「フリードリヒ二世帝の偽物ネタ」と同様に、なんとマンフレディにもニセモノが現れたという一文を見つけました。それも複数名…。    皇帝党トップであるシュタウフェン家君主が敗死、さらにフランス王家の貴族にシチリア王国を簒奪されたという出来事はヨーロッパ中で知らぬ者のないほどのビッグニュースだったはずで、すぐバレてしまいますのに、悪だくみをする人は懲りないのね、という印象です。  新たなシチリア王になったシャルル・ダンジュー伯は、「我こそはマンフレディ王。我は生きている」と名乗る男を何人も死刑に処さねばならなかったとか。    アンジュー伯は戦場でマンフレディの亡骸が発見された際、王国の遺臣に検分をさせており、おそらくその場にも立ち会っていたと思われます。  マンフレディの母方の伯父サンセヴェリーノ伯ジョルダーノ・ランチアは、甥の遺体を見るなり両手で顔を覆い「おお、陛下」と泣き崩れました。  本人確認の根拠は金髪とシチリア王の指輪、装束を略奪された傷だらけの肢体であろうと隠れもない彼の美しさだった、と伝わっています。発見は戦争終了から二日後か三日後であったと記憶していますが、二月のことですので、おそらく痛みが夏場ほどではなかったのも幸いしたのでしょう。    生前のマンフレディがどういう容姿の持ち主であったか、噂話と亡骸とでシャルル伯もそれなりに把握していたはずだとすれば、「なにが“我はマンフレディ”だ、似ても似つかんわ!」と呆れていたかもしれないな、と想像してしまいます。     ちなみにマンフレディは父帝の偽者について、「大衆の嘲笑こそが罪人へのもっとも効果的な罰となり得る」と考えていたそうですが、臣下たちがそれでは納得せず、結局死刑にせねばならなかったとD.Matthewの本にありました。  嘲笑=罰になると思うあたりが、いかにも哲学好きのインテリっぽい考え方だと感じます。  偽者への死刑を求める臣下たちの進言は当時としては普通の価値観なのですが、インテリであるがゆえに生じた臣下との微妙な“価値観のズレ”は他にもあったでしょうし、それが徐々に広がって行ったのかもしれません。  後々の悲劇の端緒を垣間見た思いです。
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