フリードリヒ二世の遺言と当時のお金

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フリードリヒ二世の遺言と当時のお金

◆遺言の本体  フリードリヒ帝の遺言について、マンフレディが関わっている箇所を改めて抜き出してみました。  ソースの一部はドイツ語のため、翻訳ミスの可能性が大いにあります。その場合はご容赦下さい。   1)第一相続人はコンラート(四世)、彼が子供がいないまま死去した場合はハインリヒ(三番目の王妃イザベラの息子)、彼が嗣子なくして死去した場合はマンフレディが相続人。 2)コンラートが不在の間はマンフレディが全イタリアとシチリア王国の行政長官を務める(行政権・統治権も代行) 3)コンラートの権限のもとに、タラント公国の王子に任命。領地には周辺地域である現在のロゼート・カーポ・スプーリコ、モンテスカリオーゾ、トリカーリコ、グラヴィーナ・イン・プーリア、ポリニャーノ・ア・マーレも含み、加えてモンテ・サンタンジェロの領主とする。コンラートはこれらの領地をマンフレディに与え、金1万オンスを補償しなければならない。 ◆金一万オンスとは、いかほどか? 【基本データ】 (a)金1オンス=31.1035g (b)1マルク=金244.5g (c)13世紀~14世紀の1マルク=現在の約500,000~700,000円 (d)マンフレディが受けた遺産=10,000オンス 【換算過程】 1) aとdより、マンフレディが受けた遺産10,000オンス=金31.1035g*10,000=金311,035g … (e) 2) bとdより、金311,035g/244.5=約1272.13マルク …(f) 3) cとfより、1272.13*500,000~700,000円=約6億4千万~9億円 //  これを算出したのは10年以上前になります。  田中貴金属工業のサイトを参考に、金相場が近年高騰していることを加味すると、現在の価値は倍以上になると思われます。マルクを介さず2021年の最高額6,897g/円で金311,035gを計算すると、21億円になりましたので。  さすが皇子様、すさまじい額面です…。  もう一人のお気に入り息子だったサルディニア王エンツィオについては、本人が当時すでにボローニャに幽閉されていたにしろ、何も言及されていません。よって、マンフレディがここまで厚遇されたのは、父帝の愛息だったからというだけでは説明が付かないことになります。  そもそも、ただの庶出の息子に継承権を与え、シチリア王国の王妃が拝領するモンテ=サンタンジェロまで授けるというのは考えにくいことです。したがって、1250年当時のマンフレディはすでに庶子ではなく、両親の結婚によって正嫡に直されていたというのは充分ありうる話だと思います。  ビアンカと皇帝が秘密結婚を交わしたのは1241~1250年の時期と推測されていますが、ではなぜビアンカとの結婚を公表できなかったかというと、(例によって例のごとく)フリードリヒが当時破門されていたから、という説が大半のようです。 ◆リチャード獅子心王の身代金  上記で換算した通り、1272マルクでも現在の価値で約20億になるのですから、英国のリチャード獅子心王がオーストリア公レオポルト五世の虜囚となったとき、マンフレディの祖父ハインリヒ6世帝に払った身代金の銀15万マルクがどれほど法外な値段であったか、ということにもなります。  母后アリエノール・ダキテーヌがイングランドじゅうのお金を掻き集めたと伝わっていますが、まさにむしり取ったと表現するにふさわしい額面です。ハインリヒ六世は冷徹冷酷な才人と評価されているとおり、容赦ないキャラですね。  もっとも溺愛している息子だから母后は必ず助けるはず、と見越して帝が吹っ掛け、イタリア遠征に費やしたのだとしたら面白いですが。  このオーストリア公レオポルト五世は、祖母であるザリエル家のアグネス皇女を通じてバルバロッサ帝と従兄弟の間柄になります。  つまりシュタウフェン家とオーストリア公家は親戚の間柄だったわけで、獅子心王がハインリヒ六世に引き渡されたのも納得です。
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