ドイツ王ハインリヒ七世

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ドイツ王ハインリヒ七世

 フリードリヒ二世に関して、有名な歴史書が幾つかあります。  もっともメジャーな伝記は、専門家の間で毀誉褒貶が激しいKantorowiczの『Kaiser Friedrich der Zweite』 (英語版:『Frederick the Second,1194-1250』)でしょうが、近年では英国ケンブリッジ大学の中世史教授David Abulafiaの著作『FrederickⅡ』も最新研究を交えた作として有名になっています。  後者で印象に残っているのは、フリードリヒの長男であるドイツ王ハインリヒ七世の反乱の経緯を書いている章の題が、『O ABSALOM, MY SON, MY SON』であったことです。  旧約聖書サムエル記で、息子アブサロムの反乱と死の報に接したダビデ王が口にした有名な科白「われ汝に代わりて死にたらん者を」(サムエル記後・第十八章)の一節ですが、フリードリヒも経験した状況はまさにダビデ王と同じなのです。  ハインリヒ七世はフリードリヒの最初の正妃、アラゴンのコンスタンサ王女を母として生まれた嫡男です。  幼くしてローマ王(ドイツ王)に選出され、ドイツで暮らしますが、王と呼ばれながらも実質上はフリードリヒの総督であり、父の頭越しにドイツ諸侯に指図することも許されない状況が続きました。シチリア王国に専念したいフリードリヒが、ドイツ諸侯の軍事力と協力をとりつける代わりに比較的大きな特権を与えたことも、ドイツ王としての王権を守りたいハインリヒにしてみれば我慢のならないことだったのです。  他にも望んだ女性との結婚を父に反対されたり、教皇の使嗾などが加わり、1231年ごろからついにハインリヒは父に反抗的な行動を取りはじめます。    紆余曲折の末、反乱は1235年にハインリヒの降伏でもって終結。  フリードリヒは反乱者たちに「皇帝に逆らっても弁明を聞いてもらえる」と勘違いさせないため、あえて息子の釈明に一切耳を貸さず、断固たる措置を取りました。  すなわちローマ王の王冠と法衣の没収=廃位、さらに失明させた上での、南イタリアでの幽閉です。  ここで甘い顔をすれば付け上がる者が必ず出て来ます。Imperial ruler、すなわち皇帝だからこそ、フリードリヒは相手が息子であろうとも厳正に処断しなければならなかったのです。    盲目となったハインリヒは各地を転々と移動させられ続けました。  1242年、フリードリヒは息子を赦すために宮廷へと呼び寄せますが、父としてのフリードリヒよりも皇帝としてのフリードリヒを信じていたハインリヒは護送の途中で兵士の囲みを突破、マルティラーノの地で馬ごと崖から転落して亡くなります。表向きは事故死で処理されましたが、ほぼ自殺といってよい状況です。  長男を赦免しようとしていた矢先の思いがけない惨死にフリードリヒは打撃を受け、シチリア王国内に長男の死を布告する文面に「父の悲嘆が皇帝の義務感を凌駕している」という一文を掲載しました。    この吐露が体裁だけでないことは、子供の名前から推察されています。  帝は子女の名前がそれぞれかぶらないよう命名しているにも関わらず、ハインリヒだけは、三度目の王妃イザベラとの間に生まれた長男に付けているのです。  歴史家たちは「父に背いた長男への無念を、新たな息子に託したのでは」と推測していますし、私もそう感じます。  溺愛したマンフレディやエンツィオと違い、フリードリヒが嫡男たちへ情愛を示したエピソードはほぼ残っていませんが、それでも父としての情は有していたはずです。すれ違った結果の悲劇は、剛毅な皇帝といえど終生手放せない後悔のひとつになったのではないでしょうか。 【付記】  近年、ハインリヒの遺骨からハンセン病の痕跡が発見されたそうですが、もしこれが本人の骨だとすれば(盗掘や謎の入れ替えも頻発していますので)、当時の医療レベルと倫理観からして、幽閉は人目から遠ざけるためという意味もあったのかもしれません。  
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