伝説化したフリードリヒ二世

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伝説化したフリードリヒ二世

 1250年にフリードリヒ帝が赤痢で亡くなったとき、枕辺には臣下やマンフレディがいまして、父の死を兄のコンラート(四世、ドイツ王)に書状で知らせてもいます。  ですからマンフレディは皇帝が確かに病気で亡くなったことを、身をもって知っている人物のひとりです。    彼がシチリア王に就いたあと、「我こそはフリードリヒ二世。余は死んでいなかったのだ」と名乗って信者を集めるうつけ者が現れました。  マンフレディはその一報を宮廷で聞いた時、大笑いしたそうです。彼は父帝の臨終を目の当たりにしたのですから、ニセモノのご登場などばかばかしすぎて、まともに取り合う気にもなれなかったことでしょう。    くだんの男を現国王として帝の実子としてマンフレディがどう処したのか失念しましたが、実はニセモノ騒動はこの一度ではなく、定期的に現れました。  それほどにフリードリヒ二世が国内に刻んだ影響は大きく、また突然の死が衝撃的であったかの証左ともいえるでしょう。    皇帝崩御の速報が教皇庁に届いたとき、教皇は最初信じようとしなかったと書いている史書もあります。  実は死んでいない、いいや病死ではなく毒殺されたのだ、などの噂も広まりました。  ネットの発達した現代でさえ、大きなニュースは情報が錯綜して詳細がなかなか定まりません。まして中世の当時、強大な君主が亡くなったという報がいきなり飛べば各地が大混乱に陥ったのは容易に想像できます。    シュタウフェンの男子は総じて才能豊かですが、なにも今このタイミングで亡くならなくても…の残念度も非常に高いのです。  バルバロッサ帝の溺死、ハインリヒ六世帝の早世、フリードリヒ二世の急死、コンラート四世の病死。不慮あるいは若くしての死が何代も続きながら、よく13世紀まで持ったものです。  歴史にたらればは禁句ですが、ハインリヒ六世やコンラート四世がもし長生きしていたら、シュタウフェンの興隆はもっと長かったかもしれません。
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