「神曲」煉獄編第三歌

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「神曲」煉獄編第三歌

 実際に煉獄篇第三歌でマンフレディがどのように語られているか、該当部分のうち、最初を抜き出します。  状況は、ダンテが地獄めぐりを終わって煉獄に入ろうとしているところです。そこで亡霊の群れを発見しますが、自分の後ろにいる彼らの一人から声を掛けられます。  神曲はダンテの一人称で、彼が見たままを語る形式のため、本文中の『私』はダンテのことです。 【原文(103-117)】 E un di loro incomincio: “Chiunque tu se', cosi andando, volgi 'l viso: pon mente se di la mi vedesti unque.” Io mi volsi ver' lui e guardail fiso: biondo era e bello e di gentile aspetto, ma l'un de' cigli un colpo avea diviso. Quand' io mi fui umilmente disdetto d'averlo visto mai, el disse: “Or vedi”; e mostrommi una piaga a sommo 'l petto. Poi sorridendo disse: “Io son Manfredi, nepote di Costanza imperadrice; ond' io ti priego che, quando tu riedi, vadi a mia bella figlia, genitrice de l'onor di Cicilia e d'Aragona, e dichi 'l vero a lei, s'altro si dice. 【日本語訳(英訳からの重訳)(103-117)】 群れの中の一人が言った、「君が誰であるかは知らないが、 歩みつつ顔をこちらに向けて、私を現世で見たことがあるかないかを 思い出してくれ」 私は振り返り、彼をじっと見つめた。 彼は金髪で、美しく、高貴な容貌をしていたが、※a しかし眉の一つが打撲傷で二つに切れていた。※b 私がうやうやしく、見たことがない旨を伝えると、※c 彼は「では見たまえ」と言い、胸の上部にある傷跡を示した。 そして微笑みながら言った。 「私はマンフレディ、皇后コスタンツァの孫に当たる。※d 君にひとつ頼みがあるのだ。 君が現世に帰った時、シチリアとアラゴンの誉れの母※eである 私の美しい娘の許に行き、 もし世の噂が異なっているなら、真実を伝えてもらいたい。 【補足】 ※a:金髪で、美しく、高貴な容貌 海外の中世史関連書では、彼のポートレート代わりにこの“biondo era e bello e di gentile aspetto,”が必ず引用されているほどの、超有名な一文です。ここに関しては次ページで細かく書きます。 ※b:眉が打撲傷で切れている 年代記で、戦場で見つかった彼の亡骸には胸と顔に傷があったという記述があります。ダンテはそれを参考にしたのでしょう。 ※c:うやうやしく、見たことがない旨を伝える 相手が高い身分の人物と気付いたため、ダンテは謙譲の態度で応じます。 ダンテの生年は1265年、マンフレディの戦死は1266年。 ダンテが生前の彼を見たことがないのも道理なのです。 ※d:皇后コスタンツァの孫 庶出であることを憚って、父フリードリヒ二世帝ではなく祖母の名前を出したというのが通説です。 ※e:シチリアとアラゴンの誉れの母 アラゴン王国のペドロ三世に嫁いだ彼の長女コスタンツァのことです。 彼女の息子はそれぞれアラゴン王とシチリア王に登位したため、祖父であるマンフレディはこのように表現しています。
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