ダンテの誇張か真実か

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ダンテの誇張か真実か

 本当にマンフレディはダンテの書いた通りの美男だったのか?というお話について。 【父帝とそっくりだった息子】  ネットでは「父のフリードリヒ二世に似ていたらしいから、実はフツメンだった」と分析する方もいらっしゃるようです。  十字軍でフリードリヒ二世を見かけたアラブ側の証言「彼は赤毛でハゲで小柄で男色家で、奴隷だったら大した値段もつかない」と、年代記作者の「マンフレディは父に似ている(顔&気質?)」が根拠と思われます。  アラブ側の証言は貴重ですが、エルサレム入城を果たしたキリスト教圏皇帝への著しい反感と、美的感覚が東洋基準であることを考慮に入れる必要があるでしょう。  髪が寂しく長身とはいえず、なおかつ男色家だった、という程度に解釈しています。  しかし、なぜ帝が男色家とアラブ側は判断したのか。  そこが非常に謎です…。 【そもそも、父フリードリヒ二世の見た目は?】  当時のイタリアの年代記はフリードリヒについていずれも「赤い金髪、均整の取れた頑丈な中背、赤みのある顔、顔が良い」系の記述で落ち着いています。  バルバロッサ帝が「赤髭」と呼ばれていたこと、マンフレディも「中背で頬が赤く金髪白皙の美男子」ですから、父子ともども平均身長、赤っぽい金髪、人並み以上に整った顔立ちで血色の良い男性と解釈したほうが、遺伝の面からも記述の整合性からも真相に近そうです。  中世には当然ながら写真もネットもなく、情報網も発達していません。皇帝家に大きな利害関係のない複数名の記述が似通うならば情報にそれなりの信頼性はあるだろうと私は考えています。 【マンフレディの容姿に関する年代記の記述】  ダンテが執筆時の参考として読んだか、あるいは後世にシュタウフェン家の逸話の根拠として伝わっていたであろう年代記は、ほとんどがラテン語で書かれていて、私は全然読めません。  神曲解説本に掲載されていた英訳を訳したものを示します。 1)13世紀後半、Saba Malaspinaの『俗事譚』 「金髪で快い顔付き、美しい面立ちで頬は赤く、瞳は輝きを帯びており、全身は雪のように白く、背丈は中背」 2)同時代人のシチリア人年代記作者Nicholas of Jamsillaの記述 「彼の容姿はこれ以上完璧にしようがない」 3)14世紀の年代記作者、Villaniの『年代記』 「マンフレディ王は、ロンバルディアのランチア候家出身の美しい女性を母として生まれた。美男で、父と同じかそれ以上の放蕩者だった。音楽も歌も能くし、道化者や廷臣、美しい側室達(←ここは娼婦と英訳している人もあり)に囲まれるのを好み、常に緑色の服で装っていた。物惜しみせず、親切で、物腰が優雅で、人々に愛された。しかし彼は享楽主義者(epicurean)で、神や聖人のことではなく身体的な享楽のみに関心を持っており、教会や司祭、修道士達の敵だった」  最初の二つは大袈裟な、と思われるかも知れません。  辞書と見比べてかなり表現を抑えた訳にしたつもりなのですが、それでも褒めすぎといった感があります。  Saba Malaspinaは生没年からしてたぶん本人を見たことはなく、しかも教皇派だったようです。それでこの絶賛ぶり…。マンフレディの死後も現地に残っていたであろう伝聞を素直に書いたのでしょうか。  Nicholas of Jamsillaはマンフレディの宮廷近くに居た人物らしく、本人を見ているかもしれません。追従というバイアスは加味すべきにせよ、並の容姿をここまで持ち上げるのは荒業すぎますし、それなりの美男であったことは確実かと。  Villaniについては後述します。  ランシマンの名著「The Sicilian Vespers(シチリアの晩鐘)」でマンフレディの美貌が「unusual beauty(比類なき美)」と最高レベルで表現されているのは、これらの年代記が典拠と思われます。  ちなみにランシマンは「マンフレディは自らの美を利用した」と書いていたように記憶しています。  妄想的には敵の男も美貌で籠絡??と深読みしたくなりますが、自らの魅力を知っていた本人があちこちに積極的に顔を出し、信奉者を増やして行ったということでしょう。美形はいつの時代もお得。   【Villaniの年代記と後世の評価】  留意頂きたいのは、Villaniが明確に教皇派(ゲルフ)だったことです。  『年代記』には、マンフレディが父帝フリードリヒを始めとして、兄王コンラートも殺したとの、事実とはまったく異なる話まで記載されているほどです。  マンフレディは当然ながら皇帝派(ギベリン)の党首でしたので、Villaniを始めとする教皇派には憎悪の矛先となる存在でした。しかもVillaniは14世紀に生きた人で、マンフレディを直にその目で見たのではなく、後世に残った言い伝えでこう書き残している訳です(ダンテも14世紀の人ですから同様ですが、彼の場合は皇帝派に近い立場なのもあってか、好意的です)。  教皇派のプロパガンダかどうかは不明ですが、マンフレディに関する大きな悪評の一つに、度を過ぎた放蕩者で政治を顧みなかったという、判で押したような記述があちこちに残っているのは確かです。ボッカチオの『デカメロン』にも彼の名前が出て来る話がふたつありまして、そのうちの一つは放蕩者との風評を受け継いだ描写になっています。カントロヴィーチの『Frederick the Second,1194-1250』ですらその視点から逃れられていません。  彼も父親同様、美女を愛し、学問芸術を愛し、教皇たちにとっては忌まわしい存在であった異国のサラセン人たちを寵愛したのは確かでしょう。鷹狩を特に好み、フリードリヒ二世が著した鷹狩に関する本に彼が注釈を加え、当時では科学の一種の位置付けだった占星術に父同様に熱意を示したとの記述もあります。  その一方で諸外国と手を結んで勢力を伸ばした政治的な手腕や、ナポリ大学で開かれた哲学の講義に臨席し、さらにパリ大学の哲学教授宛てに『シチリア宮廷にある膨大な文献の翻訳をそちらに送り、知識の伝播の一助としたい』との書状を残した彼の姿は、歴史の流れの中に埋もれすぎている気がします。  彼と哲学の関係は、また後日。 【煉獄編第三歌と中世史書】  さきほど、海外の詳しい中世史書であれば彼のポートレートとして“biondo era e bello e di gentile aspetto,”が必ず引用されていると申し上げました。  「自分が長々説明するよりも、みんな知ってる神曲を借りた方が早いしね!」という歴史家たちの声が聞こえてきそうな引用率だったのを今でも覚えています。  逆にいえば中世史の専門家が「神曲を引用すれば充分に事足りる」と見なすくらいに彼の姿をずばりと言い現わした、卓抜の一節とも云えます。  語学がものすごく苦手で初歩のニュアンスもまったく汲み取れない私でさえ、ランシマンの“unusual beauty”より“biondo era e bello e di gentile aspetto,”の方に余韻を感じますし、名文であることがなんとなく分かります。欧米語が母語の専門家たちであればなおさら、ダンテの文節に含まれる重みと価値を肌感覚で知っているはずで、だからこそ引用したのだと思います。 【結論】  歴史家が引用したがるくらいにダンテの描写は良質で真実に近かった、ということになりそうです。 【追記】  書籍化されていてなおかつ現在でも図書館に収蔵されている「神曲」の邦訳は、第三歌のみですがすべて目を通しました。  参考までに後日列記予定です。  その中で、この箇所の雰囲気がもっともよく出ていると個人的に感じたのは山川丙三郎訳です。  岩波文庫の他に、青空文庫でも全文閲覧可能です。  以下、青空文庫より引用いたします。 “黄金(こがね)の髮あり、美しくして姿けだかし、されど一の傷ありてその眉の一を(わか)てり” ――ダンテ アリギエリ「神曲」山川丙三郎訳 浄火編第三歌より
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