マンフレディと哲学

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マンフレディと哲学

 後世の歴史家に13世紀のカヴールと評される一方で、放蕩者だの優柔不断だのと一部で書かれ、教皇側にも酷い罵倒を浴びせられっぱなしの彼は見ていて悲しいので、いいところもご紹介せねばなりません。  というわけで今回は彼と哲学のお話です。    フリードリヒ帝はマンフレディがお気に入りで、常に傍を離さないほど溺愛したと記録されています。  といって正嫡と庶子のけじめをつけない人物ではありませんから、嫡子が受けたであろう帝王学をマンフレディが学んだ節はありません。帝は彼をあくまで嫡子たちの有能な補佐にすべく育てたのでしょう。  しかし帝王学の代わりに哲学や科学はみっちりと仕込みました。  どれほど仕込んだかと言いますと、中世哲学史の本に哲学者のひとりとして「Manfred,King of Sicily」と名前が明記されるレベルです。学者ではなく皇子なのに…。  西洋中世の学術レベルははっきり言って東洋よりはるかに低く、ギリシア古典などもギリシア語やアラビア語の書籍がラテン語に翻訳されないとヨーロッパに広まらないという有様でした。  しかし両シチリア王国は地中海の要衝で交易がさかんという土地柄、そしてサラセン人を重用したノルマン王国の流れを汲んでいたこともあり、宮廷には東洋語を解する知識層が揃っていました。したがって、ヨーロッパの中では東洋にひけを取らない、最先端の学問レベルを有していたのです。  フリードリヒ帝が当時の欧州の君主としては知的好奇心が旺盛で教養高かったのも、母方から受け継いだこの環境の影響が大きかったのですね。彼が12世紀ルネサンスの一翼を担ったと言われるゆえんです。  教皇庁がフリードリヒ父子を気に食わなかったのはこうして異教徒を重用して身近に大勢置き、東西の最先端の叡智を積極的に取り入れていたことも一因です。  そのDNAを継いだものか、マンフレディも様々な知識を吸収できる優れた頭脳を持っていたようで、父帝は宮廷にあった学術センターの学者に彼を託してがっつり学ばせたほか、ボローニャとパリに留学させました。  結果、彼も極めて学問に造形の深い人物になったのです。  ナポリ大学(フリードリヒ帝創設。英語表記はThe University of Naples Federico II)の哲学の講義にシチリア王の彼が臨席した記録が残っているほか、アリストテレスもしくはその弟子の著作と伝えられる『De pomo』を、ヘブライ語からラテン語に訳しています。    このラテン語訳は現存しており、現代の私たちでも読むことが可能です。  彼の訳をきっかけに、中世の西洋諸国にこの本が親しまれるようになったという経緯があります。  東洋人学者でもない、西洋出身の王族である彼がはたしてヘブライ語を訳せるだけの知識を持っていたかどうかについて、中世哲学史の研究者たちの間で議論が重ねられてきました。  しかしラテン語の特徴がマンフレディ本人の残した書状と似ている(彼のそれはひとつひとつのフレーズが長く、修辞学的で、かなり訳しにくいらしい)ことや、彼自身のアラビア語の知識から推察して、ヘブライ語をラテン語に移し変えるだけの素養は充分あったと判断出来ることなどから、結局はマンフレディ自身の翻訳に間違いないであろうという結論に落ち着いています。    このラテン語訳には、前書きとしてマンフレディ本人が記したコメントも残っています。難しい英訳を拾い読みしただけの私の訳文が正しいか極めて微妙ですが、彼はこう書いていたと記憶しています。   「わたしはかつて重体の危機を経験したことがある。そのとき周囲は“死の恐怖に怯えていることだろう”とわたしを憐れんだが、偉大な師たちから魂のことを学んでいたわたしは、死は肉体の一時の状態に過ぎず、したがって怖れる必要はないと知っていた」  哲学が彼の死生観にかなりの影響を及ぼしていたことが判ります。    ちなみに『De pomo』の翻訳を行ったのは前書きの末尾に記された称号からしておそらく1252年前後、つまりシチリア継承戦争真っ最中の二十歳ごろだろう、と英訳者は分析していました。  そのころは教皇イノケンティウス4世と大揉め中で王国内も大荒れで、彼も暗殺されかかったりしていたはずなのですが、いったいどこにこんな余裕があったのかと驚いてしまいます。  逆に精神的にめちゃくちゃ疲弊していたせいで、趣味と癒しと現実逃避を兼ねて手すさびに翻訳したのかもしれませんが。
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