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風が冷たくなり、無性に暖かい物が恋しくなる……そんな季節。
愛おしい娘の手を取り歩く近所の散歩道。
その途中にある古びた神社を見る度に。
鳥居の前の小さな石を見る度に思い出す、子供の頃の悲しい記憶。
『この石の周りを百回まわれば神様が現れて、どんな願い事でも叶えてあげるって約束をしてくれるんだよ』
いったい誰が言い始めた事なのかしら?
心から助けを求める者の希望を打ち砕く、無責任で残酷な言葉。
本当に願いが叶った人なんて居るの?
どんな無茶な願い事でも叶えてくれるの?
ううん……そもそも神様に会えた人なんて居るの?
少なくとも私の前には現れてくれなかったし、願い事を叶えてあげるって約束もしてはくれなかった。
『音』がある事も知らない小さな頃は何とも思わなかったわ。
知らない物に興味が湧くなんて事は無いし、そんな物を羨ましがる感情も無かったもの。
でも、行動範囲が広がり始めると自分の周りに『音』と言う物がある事を知ってしまった。
みんな私の知らない『音』で思いを伝え合ってる。
私の知らない『音』を使って楽しんでる。
『音』なんて存在を知らないのが当たり前だと思っていたのに。
そんな物を使わなくても何の問題も起こらないって思ってたのに。
お父さんもお母さんも近所の人達も。
私の周りの人はみんな『音』を知っていた……。
知らないのはほんの一握りの人間だけ。
そして私はその『一握りの中の一人』なんだと、そう気付いてしまった。
そんな時に知った夢の様なお話。
『お百度参り』と言う無責任で残酷な希望。
これで私も『音』を知る事が出来る。
大好きなお父さんとお母さんの『声』を聞いて、会話を楽しんで、二人を喜ばせてあげられる。
希望に瞳を輝かせ、急いで神社へ行く準備をしたけど、小さな子どもには『百』がどんなに大きな数字なのか実感が湧かなかった。
でも神様との大切な約束なんだから絶対にまわる回数は間違えられない……。
私は家にあった凧糸を十本切ってテープでまとめ。
もう十本切ってはテープでまとめ。
もう十本……。
もう十本……。
同じものを十束作れば百になるはず。
それがバラバラにならないようにしっかりと握り締めていれば間違えないはず。
出来上がった糸の束はすごい量で。
本当にこんな回数をまわることが出来るのか不安が押し寄せてきて。
……。
でも、一度も見たことがない神様に会うためなんだから。
凄い願い事を叶えてあげるって約束してもらうためなんだから、きっとこれくらいの量は当たり前なのよね。
神社に着いた私はお百度石に触れ、お賽銭箱の前まで歩いてお辞儀をし、そしてまたお百度石の所へと戻る事を繰り返した。
一回まわるれば凧糸を一本抜いて。
もう一回まわればもう一本抜いて。
疲れなんてちっとも感じなかったわ。
これが終われば神様が来てくれる。
お父さんとお母さんの声が聞こえるようにしてあげようって約束してくれる。
足が痛くなってもつらくはなかった。
のどが渇いても苦しくはなかった。
糸がどんどん減っていくのを見るのが楽しかった。
もう少し、もう少し……。
百回まわれば私の願い事は叶う。
疑う心なんて微塵も無く、信じ続けてまわったのに。
なのに……。
……。
……。
百回まわり終えても何も変わらない。
自分のまわり方が悪いんだと思った。
途中で休んだから駄目なんだ。
何回かお辞儀をするのを忘れたから駄目なんだ。
もっともっと強く願わないと駄目なんだ。
きっとそうだ。
そう思って何日も何日も神社に通いまわり続けたのに。
千回以上は回っているのに何も変わらない……。
どうして?
何が間違っているの?
何がいけないの?
これからはわがままも言いません。
お母さんのお手伝いを毎日やるって約束します。
好き嫌いも言いません。
もうお菓子ばっかり食べないって約束します!
大好きなイチゴもいらない!
だから!
お願いだから『音』が聞こえるようにしてください!
最後にはもう何をやっていいのか分からず、泣きながらまわったのを覚えているわ……。
途中から小雨が降ってきて。
疲れて、足が滑って転んでしまって。
痛くて。
冷たくて。
起き上がる事も出来ずに泣いたけど。
そんな時でも神様は私の前に姿を現してはくれなかった。
泣きじゃくる私を優しく抱き起こしてくれたのは『神様』ではなく、鳥居の前にある食堂のおばさんだった。
あぁ、神様なんて居ないんだ。
願い事を叶えてくれるって約束は嘘だったんだ。
幼い私の心にそう深く刻み込まれた。
でも……。
もし……。
もしも願い事が叶っていたら私はどうなっていたのかしら?
耳が聞こえる私は手話とは関わりの無い生活をしているのかしら?
だとしたら、手話を話さない私は高校生の時に手話サークルに教えに行く事もしなかったはず。
そこで主人と出会う事も出来なかったはず。
恋をする事も。
結婚する事も。
そしてふうちゃんのママになる事も……。
そんなのは絶対に嫌!
ふうちゃんが私の娘じゃない世界なんて考えられない!
考えたくも無い!
私の前に現れなかった神様を恨んだ事もあったけど。
神様の存在に関わる全てを否定した事もあったけど。
悩んで、苦しんで、悲しんで、世の中を卑下して。
『出口の無いトンネルは無いんだよ』そんな綺麗ごとを言う人を軽蔑して、批難した事もあったけど。
今思えば全てがふうちゃんに出会う為に必要な事だったんだと。
出口の無い状況でさえ、この子を抱きしめる為に必要な事だったんだと……そう思えるようになりました。
あの日、神様と約束を交わせなくてよかった。
願い事が叶わなくてよかった。
耳が聞こえないままでよかった。
ふうちゃん……。
あなたのママになれて本当によかった。
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