3件目

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3件目

 さて、今日最後の督促対象者だ。 「次は、ミヤタヒデコ。六十九歳で、漆目町椿田の54の4、県営住宅に住んでる。ちょっと前まで外科にケモで通院してた人だ」  その県営住宅へは、車で二十分ほどと見ていた。相手に会えるかどうかにもよるが、このペースでは帰りは夕方、桜並木も薄暗くなってしまう。  でもスズは、それを特に気にはしていないようだった。 「ケモって何?」 「あ、化学療法のこと。要するにがんの患者さん」 「そっか……また督促しづらい相手だね」 「まあね。でもそこは、割り切るしかない」  ミヤタ氏は一人暮らしで、船橋に住む一人息子が連帯保証人だ。一年ほど通院してから、病院を変えたのか、今は来ていない。債務は外来の限度額認定証制度が始まる前のもので、一部、国保の貸付制度を利用している。自己負担分は月に最低でも二万円は支払う約束だったが、滞った。 「金額はいくらくらい?」 「最終的には三十万くらい残ったよ。ウチからの紹介で、漆目町の大学病院に通院するようになってから、増えはしなくなったけど」  この件は、ソーシャルワーカーや医事係長、財務係長、それに医事委託業者のメンバーも関わっていた。とにかく使える制度は使い、診療費を取りこぼさないよう強力な布陣を敷いていたのに、結果的には督促案件となった。 「スズ、眠らなくて大丈夫か?」  嶋野は聞いた。以前、朝イチからの督促行脚に付き合わせたとき、彼女が途中で眠ってしまったことを思い出した。 「子ども扱いしないで。私、嶋野くんより年上なんだから」 「え―― 嘘だろ」 「嘘じゃないよ、私の一族は、寿命が四、五年くらいだもん。私はヒナから数えて四年目だから、人間で言うと六十歳以上になるんだよ」 「六十歳っ!」  嶋野は思わず大声を出した。 「だ、だいぶ先輩じゃないですか……」 「やめてよね、そういう言い方」 「時間の経ち方が違うんだな」 「人間に比べたら、あっという間に死んじゃうんだから。そのとき、嶋野くん、大丈夫かな。一人になるけど」  胸がギュッと締め付けられて、言葉が出なかった。  スズがいなくなる?  知り合ってから約一年の間、そんなことも考えずにうまくやってきたのに、何でそんなことを淡々と話すんだ。 「意地が悪いよな」 「ごめんね。でも私、心配だから」  嶋野は運転に集中した。  さて、もう一度、川沿いの道に出る。自転車に乗ったジャージ姿の男子学生が数人、車の脇を走り抜けて行った。川べりの道が通学路か。嶋野は少年時代を東京の御茶ノ水で過ごし、川のある風景を眺めながら育った。 「嶋野くんは、動物と暮らしていたことがあるんだね」  スズは丸くなったままで、やはり少し疲れたように見えた。 「どうして分かるんだよ」 「何となく」 「小さい頃、柴犬を飼ってた」 「可愛かった?」 「そりゃあね。毎日遊んだよ」 「たぶん、嶋野くん、その頃から変わってないね」 「どういう意味さ」 「そのままの意味」  二人はしばらく黙った。  もうすぐ、ミヤタ氏の居所へ着く。 「ねえ、その柴犬くんとは、どんなふうに別れたの?」 「引っ越して飼えなくなって、知り合いにもらってもらったんだと思う」 「そう」  スズが何を言おうとしているか、わからなかった。 「何の間違いか、私は嶋野くんと話すようになっちゃった。その柴犬さんとは違うよね、もう」  スズはそこで言葉を止めて、しばらく黙った。嶋野も黙っていた。 「年上として言わせてもらうと、私はね、まだ、嶋野くんから私を奪う勇気、持てないの」 「スズ…」  嶋野が言葉を選んでいると、ミヤタ氏の住む県営住宅群が見えてきた。ポンプ所と変電所に隣接するその敷地内には、四階ほどの古びた建物が立ち並んでいた。  駐車場に車を停め、ミヤタ氏の部屋を確認した。三号棟の三階だ。  車を降り、駐車場横の歩道を歩く。定間隔で椿が植えられていて、棟と棟の間には小さなすべり台と、それから砂場らしき跡地がある。  スズも、肩に乗ってついてきている。会話はなかった。  部屋の前まで来ると、表札はないものの部屋番号が掲げられていたので、一応確認はできた。  インターホンを鳴らす。やがて「どちらさん?」と顔を見せたのは、男だった。  スズは少しだけ後ずさりし、背中側から顔だけ出す格好になった。  男は五十代後半というところか。筋肉質なずんぐりむっくり体型で、短パンにランニングシャツというスタイルだ。息子ではないだろう。 「あの、安座富町中央病院の嶋野と申します。突然、申し訳ありません。ミヤタさんでしょうか」 「病院か、こないだは世話になったな。わざわざ何の用だよ。ヒデコならいないぞ」 「あの、失礼ですが、ご関係は……」 「勝手に人の家に来て、失礼な野郎だな」  嶋野は少し迷ったが、用件を話すことにした。少なくとも他人ではあるまい。 「ヒデコさんの診療費の件です。実は、まだお支払いいただいていない分があります」  そこまで話すと、男の表情が変わった。目が血走って吊り上がり、何とも恐ろしい表情だ。 「その話は、荏田という女も知っているのか?」 「え、ええと、はい、それはそうです」  荏田の名が出るとは思わなかった。彼女はベテランのソーシャルワーカーだ。 「嘘をつくな。お前とは話にならない。帰れ!」  一喝され、嶋野は萎縮した。継ぐべき言葉が見つからない。「すみませんっ」と言って逃げるように階段を下り、車に乗り込んだ。  ハンドルを握り、顔を突っ伏すと、深いため息をひとつ。 「超コワかった……」  もしかすると、手を出してはいけない案件だったのかもしれない。数十秒の間、嶋野はその体勢でいた。 「……帰るか」 「……うん」  何故か、おそるおそる車を出す。もう桜どころではなかった。空は随分と暗くなっている。時計を見ると、17時半をまわっていた。空は随分と暗い。 「まずい、係長に電話だけ入れとかないと」  ケータイで中央病院をコールすると事務当直室につながり、溝口という委託職員が出た。小田切が話し中とのことだったので、経理係長の篠田に、これから戻る旨を伝えた。 「桜並木があるけど、通って帰ろうか」  きっともう興味を失っていると思ったが、スズは即座に「うん」と答えた。  漆目町から安座富町に入り、それから曾孫川を渡る。県道からひとつ道を逸れると、桜通りと呼ばれる道に出た。  ここを、スズと一緒に走りたいと思っていた。だけど気持ちはすでに折れていたし、あたりはすっかり暗い。  桜は咲いていたが、街灯や店の灯りがそれを照らし出し、何だか青褪めて見えた。 「わあ、綺麗……。綺麗に咲いてるね、嶋野くん」  それまで静かにしていたスズが急に飛び上がり、車内をバタバタと旋回した。 「悪いな、もっと明るいうちに来たかったのに」 「ううん、そんなことない。私、明日にでもみんなと来る。きっと喜ぶよ」  車はあっという間に桜通りを走り抜け、住宅街に迷い込んだ。 「さあ、もう帰るだけだな」 「嶋野くんと、この青い桜を一緒に見られてよかったな」 「何だよ、さっきから」 「うん……」  スズは言い淀み、少し俯いた。 「すずめと人間があれこれ話すなんて、本当は変なんだよね」 「どうして急に、そんなこと―― 」 「いいの。忘れて」  それから病院に着くまで、スズと会話はなかった。  駐車場に車を停めると、スズは翼をはためかせて「楽しかった」と言った。小さい体で、よく半日も付き合ってくれたと思う。 「もう暗いから、スズも気をつけてな」 「うん。ありがとう」  そう言うと、彼女は窓から飛び立って行った。
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