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 午後一番、嶋野敏二(しまのとしじ)は、職員駐車場にいた。  春の陽差しが眩しい。  環境が変わる春は憂鬱な時期だが、何となく鳥たちが楽しそうに見えるのはこの時期ならではだし、近所の小川で見られるマガモの親子は、毎年楽しみにしている風景のひとつだった。  嶋野は安座富町(あざとみちょう)中央病院の財務係で、担当は現金の出納管理と、債権の管理業務だ。なかでも不良債権の回収は、財務係の常なる課題だった。  これから向かう出張督促は、簡単に言えば借金のである。相手はひと癖もふた癖もある、厄介な患者たちだ。  嶋野は公用車であるウィングロードに乗り込んだ。  同時に、も乗り込むのが分かった。嶋野の肩の上を、風のようにひゅんと通り過ぎる。 「もう来てたのか、スズ」 「待ってたんだよ。今日は午後一番って言ってたもんね」  嶋野は彼女をスズと呼んだ。  ひねりのない愛称だ。すずめだからスズ。知り合った頃、彼女が「名前なんてないよ」と言ったから、嶋野がつけた。  出張督促は、患者とトラブルになった場合も想定し、必ず二人で行くものとマニュアルで定められていた。だが上司は頼りにならないし、他に一緒に行く者もいないので、基本的にはルールを無視して一人で行っている。  それが気楽で良かった―― それなのに。 「今日はどっち方面に行くの?」  スズは助手席の上の特別席に、丸くなって座っている。  数日前に嶋野が作ってあげたその席を、心地いいと言ってくれた。それは就職した頃に何故か気に入って使っていた、秋田杉で作られた曲げわっぱの弁当箱に、厚手のハンカチを敷き詰めたものだ。 「今日は三件まわるつもり。リバーサイドコースだぞ、悪くないだろ」 「楽しそう」 「遊びじゃなく、仕事だからな。どれも回収見込みは薄い案件だよ、まあスズには関係ないか」 「そんなことないよ、私も協力するし」  嶋野は少し笑って、エンジンをかけた。そしてシートベルト。これをするのは自分だけだ。 「ちゃんと昼ごはん食べてきた?」 「うん、いつもパンをくれるおじいちゃんがいるの。だから最近は、お昼は困らないんだ。ウチの家族みんな、ラッキーだねって笑ってる」 「それなら良かった」  嶋野はほっとした。機嫌は直っている。  先週一緒に督促に行ったとき、一件も回収できずに苛立って、口論のようになってしまった。最後には「すずめなんかに」と言ってしまい、ずっと後悔していた。  車を発進させる。風が吹き込んで気持ちいい。救急車両専用口側の無人ゲートから、一般道へと出た。 「まず一人目は、ネダタカユキ、三十八歳。住所は安座富町金森一二九の六で、自宅に住んでるってことになってるけど、二年前の記録だからなぁ。電話はつながらないし、文書督促にも応じない。家族情報は一切無しで、もちろん連帯保証人も無し」  嶋野は、今回の対象患者三名の情報についても督促簿を事前に読み込み、記憶していた。 「未収額はいくらなの?」 「四年前、左手外傷の外来治療のときに十五万円ほど。救急患者で、保険証は無しだ。夜間だったし、処置が終わったら逃げ帰っちゃったのかも。その後、二年前に急性副鼻腔炎で三万円、多分これも無保険だろ。合わせて約十八万」 「何で二回目のときに回収できなかったんだろうね」 「さあ。俺が分かっていたら、もう少し対応のしようもあったんだけど」  嶋野たち財務係は、支払い困難な患者について医事課から連絡を受け、分割支払などの提案や調整をする。特に入院患者の場合は高額なので、退院時の対応は重要だ。状況によっては、ソーシャルワーカーに入ってもらう。  だが、二年前のネダ氏の外来受診時は、対応できなかった。連絡を受けたのが上司の小田切係長だったが、簡単な面談だけでそのまま帰してしまったらしい。  だって、金はねえって言うんだもん。  係長のこの言葉で、もう諦めた。彼は院内でも有名な怠け者で、話すだけ無駄だ。それを愚痴ると、スズは小さくチュンと言った。  二回の右折で、町道七号に出た。長閑な道で、近くにはサクランボの果樹園がある。そこではスズの仲間たちが群れているのをよく見かけた。 「家族にはちゃんと言って出てきたんだろ?」  ハンドルを握りながら、嶋野は聞いた。ちらりと見ると彼女は大人しく丸まっていて、眠っているようにも見える。 「督促に行くって言ってきたよ。兄弟みんな、けっこう私のお土産話を楽しみにしてくれてるんだよね。人間には気をつけろって、何度も言ってたくせにさ」 「まあ、すずめは警戒心が強いもんな」 「私は嶋野くんを信用してるよ」  正面を向いたまま、嶋野は笑った。車は町道を行く。 「ネダ氏の住所は、もう十キロほど行ったところだな」 「まだ川に出ないねぇ」 「スズ、川が見たいんだな。今日は天気もいいし、川も綺麗だろうけど、帰りには桜並木を通るんだ」 「ホント?」  スズが翼を二回、バタつかせるのが分かった。 「嬉しいな、咲いてるようなら、後でみんなと来よう」 「多分咲いてるよ、今朝のニュースで桜情報を見てきたから」  喜ぶだろうなと思って選んだ。  県道十一号に出ると通行量がやや多くなり、建物や店舗が増えた。この通りにはMIZORE(ミゾレ)という大きめのショッピングモールがあって、安座富町の住人はそこで買い物することが多い。  嶋野は人混みが苦手なので、あまり来ることはなかった。 「あ、川だね」  スズが翼を目まぐるしく羽ばたかせて、ダッシュボードまで飛んできた。 「よく分かったなぁ、曾孫川(ひこがわ)だよ」 「私、この川にもよく来るよ。もっと上流だけど」 「そうか。ネダ氏の家は、ここを越えたらすぐだな」  車は高架橋を渡る。川面がキラキラと光っていた。 「眩しいね」  嶋野はコンソールボックスから左手でサングラスを取り出し、素早く耳に引っ掛けた。 「私、サングラスかけた嶋野くん、あまり好きじゃない…」 「仕方ないだろ」  川を渡りきってすぐの交差点を左折した。ここからは川沿いに、下流に向かって進む。五分ほど走ると、目的地の付近に着いた。 「多分、このあたりだな」  嶋野は車を路肩に停めた。舗装されていない砂利道で、そこから土手を下りるとすぐに川だ。  出張督促グッズの入った黒カバンを持ち、サングラスを外す。そのままの姿で行くと、本当に取立て屋になってしまう。  スズも飛んできて、嶋野の肩に止まった。 「このあたりは同じ番地だ。ここからは歩いて探すしかないな」 「何か目印はないの?」 「ない。表札が出てなかったらアウトだよ」  嶋野は特に手がかりもないまま、歩き出した。まずは何軒か、玄関先を確認して歩こうと思っていた。経験上、近所の店で聞き込みすると情報を得られることが多かったので、古そうな店も探すことにした。  天気が良いのはいいが、日差しが段々と暑くなってきた。汗が滲む。  いくつかの表札を確認したが、ネダという名前はなかった。 「あ、そこに何かお店屋さんがあるよ」  肩の上できょろきょろと辺りを見回していたスズが、翼で指差しながらそう言った。 「古そうな酒屋だな。聞いてみるか」  嶋野たちは店に入ると、丸イスに座って新聞を広げている、白髪のオヤジを見つけた。彼は新聞をたたみ、こちらを見た。 「安座富町中央病院の嶋野と申します。実はちょっと事情がありまして、患者さんを探しているんですが、このあたりでネダさんというお宅をご存知ないでしょうか」  そう言うと、店主は訝ることもなく、「あぁ」と返事をした。 「ネダって、あのバカ息子のことだろ? 最近姿は見かけねえな、親父さんならまだ住んでるが、呼んでも出て来るかどうか。体調悪い上に、こんなことが続いてるからよ」  当たりだ、と嶋野は思った。 「ネダタカユキさんです。お住まいの場所、分かりますか?」  最近では個人情報保護がうるさくなっているが、出張督促の場合は、そのあたりを多少無視していいと考えていた。どうせ金も払わず逃げ回っているヤツばかりだ、遠慮は要るまいと。 「すぐそこだよ、ほら」  店主は店の外まで出て、道を指し示してくれた。この酒屋からでも見える距離にある、瓦屋根の古い家屋だ。 「ありがとうございます、助かります」 「おお、頑張れ」  何だかよく分からないが、応援してもらった。  近づいてみると、その寂れ具合がよく分かった。かつては名家だったのか、蔵まで備えた広い敷地だ。だが壁も屋根もボロボロで、窓に立てかけられたよしずは、腐っているように見えた。  表札は間違いなくネダ氏のものだった。意外とあっさり見つかった。 「ここだね」  スズが肩から飛び立ち、先に敷地内へ入ってしまった。嶋野も後に続く。玄関は引き戸で、その横にインターホンがあった。  嶋野は持参した督促簿に再度目を通し、内容を整理した。  インターホンを鳴らす。一度、二度。  返事がないので、「ネダさーん!」と大声を出すが、無反応だった。 「留守なのかな」 「留守でも居留守でも、これ以上どうしようもないな」  嶋野はしばらくうろうろし、人の姿を探したが見つからなかった。郵便受けを見つけ、そっと近づく。  開けて中を見ると、封筒やハガキが積み上がっているのが確認できた。一番上は、日本年金機構からの通知で、ネダタカユキ氏宛だった。 「滞納かな…。でも少なくとも住所は変わってないってことか。スズ、ちょっと二階を見てきてくれるか」 「了解っ」  スズは羽ばたいて、二階のベランダまで飛んで行った。嶋野の位置からも、色褪せた物干し竿が何本かかけられているのが見える。スズはすぐに戻って来た。 「窓から中を見たけど、誰もいなかったよ。でもね、ぐちゃぐちゃの布団が見えたから、誰か暮らしてはいるのかも」  生活実態は一応有りというところか。  念のため、自分のケータイからネダ氏の番号にかけてみた。専用ケータイの貸与を小田切に要請しているが、話はそこで止まっている。  電話はやはりつながらなかった。以前一度だけ話せたときの、ネダ氏の激昂ぶりを思い出した。  ――な、何でそんな金払わなきゃなんねえんだよ!  ――治療を受けられたのは間違いないですよね?  ――金はねえって最初に言ったぞ! それに左手だって今も痛むし、医療ミスじゃねえのかよ! 病院だったら、患者が痛がってたら、金なんか関係なく助けるのが義務だろっ!  ムチャクチャだ。思い出すだけでも不愉快である。 「電話、わざと出ないんだね」 「そういうヤツは多いんだ」  とりあえず、今日はここまでだと思った。督促状を置いて帰るしかない。直接来たということが分かると、それなりにプレッシャーを与えることができる。  嶋野は封筒に督促状を入れ、郵便受けに入れた。顧問弁護士の名も入っていて、文中には「法的措置も辞さない」とある。支払督促制度は小田切の業務だが、例によって、発動はされない。 「じゃあ、次に行こうか」  嶋野とスズは、元来た道を車まで戻った。
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