2件目

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 嶋野は、自動販売機でコーラを買った。取り出してからすぐに、スズも飲めるものにすれば良かったと思い直したが、彼女は「水でいい」と言って川まで飛んで行った。  先に車に乗り込む。  車の中で、次の対象者の住所を確認し、地図を広げた。さらにしばらく南下し、隣町に入ってからすぐのアパートだった。  やがて戻って来たスズはいつものように窓から入り、いつもの特別席に座ると「さあ、行こうっ」と妙に張り切っていた。 「二人目はコバシユタカで、平成生まれの23歳。漆目町(うるしめちょう)松の原22の5、リバーサイド松の原B105。一応、母親から連帯保証人の確約書を取れてるな、まあ生計が同じだからあんまり意味ないけど」  連絡先の候補がいくつかあるだけでも、それなりにありがたい状況だ。といっても、連絡がつかないからこそ、出張督促という事態にまでなっている。 「今度こそ、少しでも回収できるといいね」 「そうだなぁ。未収額は、何と58万円だよ。交通事故で加害者不明、そのうちにコバシ氏とも連絡がつかなくなって、俺の方に話が上がってきたんだ」  厄介だな、と思う。  交通事故などの第三者行為は、保険証を使うにしても保険者の許可が要る。一年半前の事故当時、コバシ氏は電気機器メーカーに勤めていて、社会保険には加入しているはずだった。だが手続きの遅れか、結局のところ自費算定になり、膨大な額となった。 「でも、自賠責保険っていうのがあるんでしょ?」  スズは人間の世界のことをよく知っていて、時々感心することがある。 「いや、コバシ氏の歩行中の事故なんだよ、要はひき逃げだ。勤務中じゃないから労災にもならなかったらしい」  スズはまるでため息をつくように、一回だけチュンと鳴いた。  車を走らせると、風が心地よく流れ込んだ。漆目町は安座富町のすぐ南で、懐かしい田園風景が広がる。収穫期、嶋野はナウシカに出てくるような黄金の草原を見るために、一人でわざわざこの町を訪れたことがあった。 「嶋野くんはさあ」  不意に、スズは言った。 「どうして職場の人たちが嫌いなの?」  思わぬ問いかけだった。そんな話を、スズにした記憶がない。 「嫌いってわけじゃないよ。苦手なんだ」 「だから、避けてるの?」 「意図して避けてるんじゃなく、これが普通なんだよ。まあ小田切係長には、腹が立ってばかりだけど」  職場での自分の姿を見せたこともないのに、なぜスズはそんなことを聞くのだろう。  ――もうちょっとみんなと話さないとなぁ。  不意に、いつか小田切に言われた言葉を思い出した。今のスズと同じように、職場の連中が嫌いなのかと聞かれたこともあったが、そんなことはないと答えた。  嶋野は、スズになら話してもいいかなと思った。 「今、人事係長の小菅(こすげ)さんって人が、病気で長期療養中なんだ。すごく良い人で、課も違うのにいつも俺のことを気にかけてくれた」 「病気って?」 「まあ、いわゆる心の病気だな」 「そうなんだ。嶋野くんの職場は、そんなに環境悪いんだね」 「いや、そんなことはないよ。むしろ今はかつてないくらい、みんな仲良くやってる。二階の事務室には人事課と総務課、それに俺のいる財務経理課があるんだけど、垣根なく、風通しのいい職場だよ、客観的に見て」  皮肉ではなく、嶋野はそう思っていた。 「じゃあ、輪ができてるんだ」 「そう。スズたちと一緒だよ、一体になってる感じだな」 「私たちは、意外とそうでもないんだよ。群れにはなるけど、ご飯や寝床のことで、ケンカばっかりだしさ」  スズは笑った。ホントかよ、と嶋野は思う。 「でも俺は、小菅さんと同じタイプだから、何となく分かる。輪ができるってことは、同時に、輪の外側(、、、、)もできるんだってこと」  輪がなければ、輪の外側もまた存在しない。  小菅は堅実で生真面目、黙々と仕事をこなすタイプだ。だけど彼にとっていつしか、風通しの良いその職場が、ひどく辛い場所になってしまったのではないか。 「輪の外側……」 「まあ、言い訳だよ。あるいは、嫉妬かもしれない。馴れ合ったり、うまく立ち回ったりできない人間の」  それもまた本心だ。  チームワークが良くて、悪いことなど何もない。  だけど、仕事をしに職場に来ているのに、仕事以外のことで苦しまなければならないとしたら、それほど虚しいことはないだろう。小田切のように仕事は雑で時間が余れば飲みや遊びのことしか考えないような男が、妙な人望を集めたりする。  そして嶋野は、一人の女性職員の顔を思い浮かべた。 「総務課に、出雲って女がいるんだ」  嶋野は、ハンドルを握る手に力が入るのが分かった。  総務課物品調達係の出雲亜美(いずもあみ)。嶋野と同い年で、職歴は彼女が少し先輩だ。 「彼女はいつも、輪の中心にいるよ。彼女がいると笑いが絶えなくて、職場の雰囲気は明るくなる」  左を見ると、スズはまた飛び上がって、今度は運転する嶋野のほぼ向かいに止まった。 「その人のこと、好きなの?」 「な、何だって」  スズはじっと嶋野を見て問いかける。思わず、運転が乱れた。 「話を聞いてなかったのかよ。今の流れだと、俺はそいつを疎ましく思ってるってことだろ」 「本当に?」 「ちゃんと文脈を読めっ」  焦りながらも、嶋野はしっかりと否定した。何とも寂しげな、スズのそんな表情を見るのは初めてのことだ。  出雲は、事務部全体のムードメーカーである。いつだって明るく活発に突き進み、嫌味がなくてさっぱりした性格だ。嶋野は彼女を異性として見たことはないけれど、こんなに愛想の悪い自分にも元気に「おはよう!」と言ってくれるので、それを聞くのは密かな楽しみだった。 「小菅さん、元気になるといいね」  不意のスズの声に、嶋野はドキッとした。 「……そうだな」  頭の中を読まれた気がした。たった14センチの身体で、だけど、自分よりよほどデリケートな心を持っていると思った。  コバシ氏のアパートの付近まで来た。二階建ての建物群は、全体が薄いブルーだ。舗装なしの駐車場に停める。 「綺麗な色だね」 「ああ、でもそんなに新しくはないな。A棟は単身者向けか、コバシ氏の部屋はB棟の一階だったっけ。こっちは世帯向けだな」 「家族で住んでるの?」 「同じ住所になってるから、多分一緒なんだろ。母親は外国人で、どうも後妻らしい」  車を降りると、嶋野たちはB棟へ向かって歩いた。 「お父さんはいないんだね」 「分からんなぁ」  105号室を見つける。  表札は出ていなかったので、取りあえずインターホンを鳴らした。音が聞こえるので、故障はしていない。何回か鳴らし、それからノック、声がけをしてみても返事はなかった。 「ここも留守か」 「また電話してみるの?」 「ダメ元でかけてみるか」  父親を除けば、連絡先は分かっている。ただしこれもネダ氏と同じで、何度かけても、連絡がつかない番号ばかりではあったけど。  まずはコバシ氏本人の番号。以前と同様に「データ通信専用」というメッセージが流れた。次は、母親だ。カオラアデ・バノラエンという名で、東南アジア人らしい。  四回目のコールで、思いがけず「はい」と女性の声がした。 「えっと、カオラアデさんでしょうか。中央病院の嶋野と申します。今、お電話、大丈夫ですか」 「病院…。あ、電話ダイジョブです」  嶋野はホッとした。本人らしく、しかも話を聞いてくれそうだった。 「一昨年の、ユタカさんの交通事故についてですが」  嶋野は簡単に、概要を話した。もちろん彼女も全て知っているはずだ。連帯保証人のハンコを押した自覚があるかどうかは分からなかったが、支払わなければならない立場にあることは、その沈んだ声で、認識している気がした。 「わたし、頼まれごとの仕事してるとこで、今日は四時までダメです」 「お住まいは、リバーサイド松の原でお変わりないですか」 「あの青いとこ、わたしは、今は違います。亭主いるから、帰れません」 「では、今お仕事されている場所は、どちらでしょうか」  頼むから、東京だとか言わないでくれよと祈った。 「すぐ近くです」 「良かった。今、少しだけ会えませんか。お時間は取らせません」  彼女は電話から遠ざかり、誰かに何かを確認しているようだった。それから、サニー・ダンの駐車場で良いか聞かれた。近くの衣料品店らしい。 「じゃあ十分後に、そこで」  電話を切る。彼女は徒歩だそうだ。ちゃんと来てもらえるか不安はあったが、ネダ氏のケースよりは進展があってほっとした。 「スズ、ちょっと高く飛んで、サニー・ダンって衣料品店を探せるかな」 「分かった~」  スズは窓から勢いよく飛び出して、空高く舞い上がった。いつだったか彼女が、「私たちは渡り鳥ではないから、そんなに長時間は飛べないんだ」と教えてくれたことがある。だが長さはともかく高さについては、こうやって辺りを確認してくれるので、とてもありがたかった。  これは、まさしく鳥瞰だ。  好きなときに好きな場所を、好きなだけ飛び回る。羽があるということが、何とも羨ましいと、嶋野は思った。自分にもそれが生えて、いつかスズと一緒に空を飛べたら―― 。時々、そんな想像をした。 「あったよ、あっちあっち。駐車場、結構広いね」 「おし、じゃあすぐ行こう」  嶋野はスズが車内に戻ったのを確認すると、車を走らせた。  サニー・ダンは量販店だった。駐車場は広いが、時間帯のせいか車は少ない。嶋野は一番外側の端に停めた。  やがて、それと思われる女性が姿を見せた。グリーンのセーターにジーンズ姿で、恰幅がいい。車の中から注視していると、辺りを伺う様子を見せたので、間違いないと思い嶋野も出て行った。スズには車内で待っていてもらうことにした。 「カオラアデさんでしょうか」 「あ、そうです。病院の人ですか」  良かった、本人だ。嶋野は名刺を差し出した。立ち話は気が引けたが、仕方がない。  聞くと、彼女は知人の飲食店を手伝っているが、生活は苦しいという。夫とは別居状態で義理の息子とも疎遠になったのに、診療費の債務だけは負ってしまったという。気の毒だが、話は進めなければならない。 「少しずつでもいいので、お願いできませんか」 「私、五千円も苦しい。でも、がんばれます」  五千円―― 少ない。完済に十年近くかかる。だが無理をさせても、継続しなければ意味がない。 「では、返済計画を作りますので、捺印をお願いします。あと、今日はいくらか支払えますか」 「今日、ちょとむずかしいです、でも一万円なら」  今は十分だと思い、嶋野は領収書と支払確約書の準備をした。確約書は複写で、支払計画を書き込み、それから一万円を確かに領収した。 「突然、すみませんでした。感謝します」  嶋野は、カオラアデ氏に一礼して別れた。 「お金、もらえたんだね。良かった」  特別席で眠っているように見えたスズが、嶋野を見上げて言った。 「そうだな。だけど……」  この業務をしていると、やりきれなくなることがある。苦しい生活のなかで一生懸命支払おうとする人もいれば、うまいこと逃げ果せて百万以上の債務を踏み倒すヤツもいるのだ。中央病院の未収金は、累積で数千万円にもなる。  病院の実態を知らない人にこの話をすると、だいたいは無保険の外国人をイメージするが、実際はそうじゃない。地域性もあるが、中央病院の不良債権は、そのほとんどが日本人だ。  嶋野は車を出した。  スズは不思議そうな顔で、嶋野を見つめていた。そのまま黙っていたので、嶋野は何か話そうと、話題を考えた。 「そういえば、こないだ外来を歩いてるときに、見覚えのある患者さんに会ってさ。七十過ぎのお婆ちゃんで、整形外科に通院中なんだけど、数年前の入院費を分割払いしている人なんだ」 「それで、嶋野くんも知ってたんだ」 「そう。といっても、入金が遅れたときに、電話とか外来の窓口で話す程度で、そんなによく知っているわけじゃないけど」  サニー・ダンの駐車場を出る。 「イヤなもんだよ、そのお婆ちゃん、俺の顔を見るなりすぐ立ち上がって、『すみません、遅れている先月分はすぐ払いますので』だって。俺、別にそういうつもりで見たわけじゃないのにさ」 「本当に借金取りみたいだね……」 「まあ、もう慣れたけど」  嶋野が笑うと、スズも少し笑った。  日がだいぶ傾いてきている。次の督促で、今日は終わりだ。
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