43人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
春の終わり
中央病院二階の事務室に戻ったのは、18時半を過ぎた頃であった。まだほとんどの職員が残っている。
春は総務課も人事課も多忙な季節で、いつも数名は深夜近くまで残業しているが、財務経理課は比較的帰りが早かった。
「遅れて申し訳ありません、今帰りました」
課長の田宮に、嶋野は言った。めずらしく居残っている小田切が、ちらりとこちらを見た。
「おい、お前、状況わかってるか?」
田宮は怒りを抑えた声で嶋野を詰問した。彼はキレやすく、月に一回は爆発することで有名だ。
「すみません、帰りが遅れました」
「そうじゃねえ! お前、ミヤタ何とかって患者の家に押しかけただろ!」
大声を出され、嶋野は思わず目を瞑った。
「ミヤタヒデコさん、はい、督促に行きました」
「荏田さんと医事の佐々木が、ついこないだ、支払い計画について話をまとめたところだ」
「えっ!」
「聞いてなかったか? だがお前から確認すればいいことだ。督促は計画を立てるのも実行するのも、本来一人でやることじゃないだろう!」
「で、でも、事前決裁はもらっています」
出張督促に行く際には、事前に内容を取りまとめ、関係者の決裁をもらっている。医事係長の佐々木も、小田切も、田宮も、見ているはずだ。
「書面でまわってきても、内容なんかろくに見ちゃいねえだろ。督促みたいにデリケートな話は、関係者に直接聞いてから行けよ!」
田宮は自分のデスクを平手でバンと叩いた。事務室内の視線がこちらに一斉に注がれる。そのなかには、出雲亜美もいた。
「もういい、これから気をつけろ。それから、小田切に礼を言っとけよ。クレームはあいつが対応したんだぞ」
「――本当ですか」
ある意味で、最も聞きたくない事実だった。嶋野はいつだって小田切に振り回されてきたし、小田切の分まで仕事をしているという自負がある。
嶋野は田宮の前を去ると、すぐに小田切の元には行かず、自分のデスクに戻った。領収した現金や領収書の控えなどを、早々に整理しておきたかった。
スズの言葉を思い出す。
―― 私は何の間違いか、嶋野くんと話すようになっちゃった。
―― すずめと人間があれこれ話すなんて、本当は変なんだよね。
だけど、嶋野は話すことで、大切なものを得た。一番、苦手なことだったはずである。
話すこと。
相手の目を見ること。
避け続けてきたのだ。自覚してからずっと、いやそれよりももっと前から。今さら小田切に、どんな話をして、何を伝え、どんなコミュニケーションを取れというのか。
「嶋野」
気付くと小田切が、嶋野のところまで来ていた。
「悪かったな、俺のせいでトバッチリ受けて」
「え……」
「俺は、支払の合意ができたことを知ってたのに、お前に言うのを忘れてた。決裁も、ほとんど中身を見てないまんま、ハンコぽんっ」
小田切は笑った。
「嶋野がいつも頑張ってくれるから、ウチの不良債権はある程度は抑えられてるし、俺もラクができてる――なんて言ったら、調子良すぎか」
小田切は平然と言う。そのとおり、あまりにも調子良すぎだ。だけど、言葉を発することはできなくて、嶋野は口ごもった。
それからほどなくして、小田切は「お疲れ」と言って帰った。嶋野も、数分後に事務室を出た。
部屋にはまだ、総務課も人事課も人が残っていた。春はいつだって、誰もが忙しい。そしてきっと誰もが、言葉にできない何かを抱えて、残業をしているのだ。
春はキライだ。
その日から、スズには一度も会えていない。
よく考えれば積極的に連絡を取り合う手段は何もなくて、今までは別れ際に嶋野の予定を伝え、それに合わせてまた彼女が来てくれるといった具合だった。
つまり、彼女の気まぐれによってのみ成り立つ関係だ。
それが消えてしまったのであれば、それもまた、彼女の意思による消滅に他ならない。あるいは彼女の身に何かあったのかもしれないが、そんな恐ろしい想像はかき消した。
ある休日、あの桜通りにも行ってみた。
もう花びらはとうに散っていて、葉桜がさざめいている。その樹々の中に、数羽のすずめたちが群れているのを見つけた。
「スズ」
嶋野は小さく呼びかけた。だが、反応はない。きっとその群れの中にスズがいても、いなくても、返事はなかっただろう。
嶋野は、路肩に停めていた車に戻った。
助手席に置いてある、曲げわっぱの特別席を手に取って、後部座席に移す。
そろそろと、車を出した。
太陽が眩しくて、目を細める。正面の空に立ちはだかるその雲は、夏の形をしていた。
最初のコメントを投稿しよう!