増井真也:28歳

1/1
8人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ

増井真也:28歳

 俺は、さっき目玉焼きを作りながら考えていたことを口に出した。 「俺、もう決めたんだ。これから竜崎さんのことはカオリンって呼ぶ」 「えー、やだ」  絶対そう言うと思ったんだ。 「じゃあ、かおっちの方がいい?」 「もっとやだ」  よっしゃ。思った通り。  俺はできるだけさりげない口調を意識した。 「愛してるよ、香織」  ふいをつかれて目を丸くする香織。 「ちょっと、朝から何言っちゃってるの」 「えへへ。だって本当のことだもん」  手をうちわのようにして顔をあおぐまねをする香織が愛おしい。 「ってか真也。あとで通院してきたらしごくから覚悟しなさい」  ちゃっかり呼び捨てにされたことなど吹っ飛んでしまうくらい、ひるんでしまった情けない俺だ。俺のリハビリ担当医としての香織先生は相当厳しい。だが俺は、香織先生が一緒に頑張ってくれたからこそ、当初想定されていた以上の機能回復が実現した。 「はぁい。頑張ります……」 「よろしい。ってか、あたしも負けないくらい真也のことを愛してるんだからね」  完敗だ。俺は茹でだこのように顔を真っ赤にしてしまった。  出勤した香織を見送ったあと、俺はカメラを取り出した。事故の時も持っていた俺の相棒で、持ち主は重傷を負ったというのにこいつは奇跡的に無傷だった。  俺はリビングへと移動し、掃き出し窓を開けてベランダに出る。  車椅子の俺でも自由に動けるほど広々としたベランダには、出勤前に香織が干してくれた洗濯物が揺れている。    一度はあきらめかけたカメラマンの道。だが、俺はもう一度チャレンジしようと思っている。ここまで俺を動けるように指導してくれた香織のために、そしてほかならぬ自分自身の夢を実現するために。  もうかつてのようにテクニックを駆使した写真は撮れないだろう。だからこそ、今の俺にしか撮れない写真があるはずだ。絶望を知った俺は、ほんの些細なところに幸せを見出せるようになったから。  カメラを構え、ファインダー越しに空を見上げる。 ──今日が俺の再出発(restart)。  早春の空。雲の間を縫うようにして伸びる飛行機雲。  シャッターボタンを押すと、小気味いい音とともに俺の決意が切り撮られた。 6ce1b0eb-8036-4323-be29-5e11688a53c0 <了>
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!