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4
夏希という真の婚約者を見失い、ケイコは途方に暮れていた。まだ空は明るいが、そろそろ夕焼けに染まりつつある。
息が上がり、肩は上下していた。殺意に五十路の体力が追い付いていなかった。
知らない道を、ただただ機械的に進んでいく。体の所々に血がついており、人とすれ違うたびに目を向けられた。通報されたかもしれないが、別にそれでも構わなかった。包丁は握った状態で袖口の中に隠している。
やがて公園が見つかり、そこに入った。小さな公園で、遊具は滑り台だけだった。幸い誰の姿も見当たらず、ケイコは端のベンチに腰を下ろした。
「大人になったら、ケイコ先生と結婚してあげる」
幼少期の真の声が脳裏に蘇った。何度も脳内で再生された言葉だった。その度に、ケイコは頑張ろうと気持ちが湧きたった。しかし今回それは、彼女の憎悪を掻き立てる以外に何の役目も果たさなかった。
しまいには、涙も出てきた。泣くことは頻繁にある。だがいつもは寂しさから来る涙で、今回は悲しみからくるものだった。
悲しくて泣いたのはいつ以来だろうか、とふと思った。ああ、あの日だ、とすぐに思い出す。十五年前、婚約者に振られた時だった。
当時、ケイコは三十五歳だった。結婚目前、彼女は愛する人に捨てられた。その彼はたしかに言ったはずなのだ。プロポーズの際、「君を幸せにする」と。べたな台詞だったが、ケイコは泣いて喜んだ。にもかかわらず、彼は約束を破ったのだ。捨て台詞は「重すぎて耐えられない」だった。
発狂した。これ以上の悲しみはないだろうと思った。胸にぽっかりどころではない。彼女の心臓は、月のクレーターほどの大きな穴が空いていたはずだった。
しかし、ケイコはそれほどの悲しみを職場では出さなかった。子供たちに暗い顔を見せるわけにもいかず、彼女は笑顔を顔に貼りつけて仕事をこなした。
同僚にも打ち明けなかった。三十五歳、結婚ラストチャンスを逃した哀れな女というレッテルを貼られたくなかったからだ。
ところが、そんな彼女の内面を見抜いた人物が一人だけいた。それが真だった。
今でも鮮明に覚えている。普通に遊んでいたはずなのに、真がこう言ってきたのだ。
「先生、最近元気ないね。どうかしたの?」
無意識に涙が出ていた。この子だけが私を理解してくれた――。そう思うとケイコは、簡潔にだが事情を打ち明けていた。それを機に、真からのプロポーズを受けたのだ。私を理解してくれてるこの子なら私を裏切らない、ケイコは何故かそう信じて疑わなかった。
二度目の悲劇は、つい先程起きた。
殺意は収まっていなかった。むしろ高まっていた。全身に浸透するようにそれは込められていた。それをぶつけたい衝動に駆られる。しかし、その相手は夏希ではなかった。彼女は今、真を殺すことで頭がいっぱいだった。
約束なんてもうごめんだわ――。
ケイコは袖口に入った包丁を力強く握り、立ち上がろうとした。
その時、前方で影が動くのが視界に映った。
彼女が顔を上げると、目の前で男がケイコを見下ろしていた。五十代くらいで、スーツを身にまとっている。
「お久しぶりです、コバヤシさん」軽快に男は言った。
ケイコは眉を顰めた。全く知らない男だったからだ。だが、この男はケイコのことを知っているようだった。
「それどうしたんですか?」ワンピースに付着した血に気づいて、男は目を見開いた。
「誰ですか」
ケイコはその質問には無視し、男を睨むようにした。
「誰ですかって」男は半笑いで言った。「冗談やめてよ。ムロタですよ。ムロタテッペイ」
ケイコが首を傾げたからか、男は「ほら、中二のとき同じクラスだった」と追加した。
「ごめんなさい。覚えてないわ」
すると、さっきまで穏やかだった男の顔が能面のように変わった。
「じゃあ、あの約束のことも?」
「約束?」気味が悪くなってきた。「ごめんなさい、急いでるんで、そろそろ行きます」
そう言って立ち上がろうとした。
だが、それは叶わなかった。男の手が伸びてきて、彼女の首を絞めた。があ、と声とはいえないものが喉から漏れた。
「ふざけるなよ」男は言った。「忘れたなら教えてやる。俺は中二の時あんたに告白して振られた。でも俺は諦めずにもう一度アタックした。するとあんたは笑いながらこう言った。50歳になったら付き合ってあげるってね。覚えてないなんて言わせない。覚えてるよな。覚えてるよな」
首を絞める力が一層強くなった。苦しくて息ができない。
ケイコはもがきながら、男の言ったことを必死に思い出そうとした。もしかしたら、そんなこともあったかもしれない。当時は告白されることが多く、適当にあしらうことがほとんどだった。この男もそのうちの一人なのだろう。
しかし、そんなことはどうでもいい。このままでは殺されておしまいだ。まだ私にはやることがある――ケイコは袖口に入れた包丁を震えた手で取り出した。
黒目を下に動かし、最後にもう一度、男の顔を凝視した。
男の瞳は、涙で充血していた。怒りと悲しみが入り混じったような涙だった。その二つが合わさると、憎しみに変わることを彼女は知っていた。
その瞬間、すっ、と何かに解き放たれる感覚がした。ケイコは全身の力を抜いていた。
包丁が、彼女の手から落ちていった。
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