不思議な遅刻

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不思議な遅刻

 子供の頃から何度か体験したことだった。今日の朝久しぶりに五十を過ぎた傍目にはすっかり分別のある初老にも見えるかも知れないこの身に起きたことは。  いつもと変わらない朝。家族と平日のルーティンを慌ただしく過ごして子供をいつもの時間に駅まで送りNHKの朝ドラ受けを見てから弁当と携帯電話を鞄に入れ水筒を手に持って家を出る手順にも狂いはなかった。会社までのいつもの道を自転車で同じように走りコンビニで百十円のコーヒーを飲んだのも毎日のことだ。出社した時間は当然ながらいつもと同じはずであった。  しかし職場に着いてみるといつもと様子の違っている。明らかに始業前ではなく少なくともみんな一時間は仕事をしている雰囲気なのだ。 「どうしたの?みんないつもと様子の違うようだけど。」 近くの席の同僚に声を掛けてみた。 「そうか。特に変わったことはないけど。」 「いや。いつもより早く仕事を始めているじゃないか。」 「たまにはね。そういうこともあるかもしれん。」 「第一鈴木さんのもう仕事をしているのにはびっくりじゃないか。」 鈴木さんは毎日始業ぎりぎりに出社してくる。三年近く同じ部屋にいるけれど一日たりともそれはかわらない信念の人だ。 「彼はいつも通りだよ。」 鞄から眼鏡ケースを取り出して仕事用に掛け替える。何気なく壁の時計を見てハッとなった。十時を過ぎている。そんなはずはない。 「時計随分進んでいるよなあ。」 「そんな訳ないよ。電波ソーラーだし。」 「はあ?」 なんだかどこかで誰かに時間を盗まれたような気分だ。漏水や漏電のようにどこかで漏れ出てるいるのだろうか。とにかく僕の時間だけ短くなり始めたのか。 「そんなことより連絡くらいしとけよ。遅れるのなら。」 その一言で思い出した。昔もあったこんなことを。  最初に思い出したのは中学三年生の夏も終わり二学期の始まって少しした頃のことだ。ちょうどこれと同じことのあった。あの時の担任の先生の一言にえらく混乱した。 「遅れるのなら連絡くらいはしておけよ。」 いつもの通りに朝ご飯を食べてトイレに行って先に出かける父と姉の三十分後には家を出た。普段と何も変わらない。違っても三分以内くらいのはずだった。そしていつもの道を同じように普通に歩いて登校した。ちょっと違ったのは友達に誰にも会わなかったことだ。学校に着くと普段は生徒や先生たちの姿の校門や校庭に見えるのにその日は誰もいなかった。玄関を入ると下駄箱の辺りにも誰もいない。そこから見渡せる片側に教室の並ぶ廊下のしんと静まり返っている。まるで放課後か休みの日の学校だ。どの教室も入り口の扉を閉めて窓越しに同じ制服を着た同年代の男女の同じ方向を向いて座っている様子の見える。その時とても怖ろしい光景を見てしまい不安になったことを思い出した。僕の教室の引き戸の扉も閉まっていた。中ではもうみんな整然と座って授業を受けている。廊下の外で不審に思い立ち竦んでいると中から担任の先生の気づいて扉を開けてそう言ったのだ。 「え?ええ・・・」 いつもより早く学校のはじまるのなら一言くらい伝えておいてほしいよ。僕にしてみればそんな反論も当然のところだ。しかし開いた扉から見える僕は中のみんなから笑われていた。僕は遅刻それも結構な遅刻をしているようなのだ。席に座ると隣の友人にそっと尋ねた。 「どうして今日はこんなに早く始まってのかなあ。お知らせとかあった?」 「いつもと変わらんじゃないか。大丈夫か。」 「まさかどっきりカメラ。」 「はあ?そんな馬鹿な。大丈夫か。それより進路希望どうするか決めたか?」 その日は来春の卒業後の進路希望について担任との個別面談の日だった。 「一応東京の大学へ進学のつもりだから隣町の進学校を希望するつもり。だけどどうせ担任や進路指導の先生たちの寄ってたかって無理だからやめとけとか地元にしろとか押し付けてくるに決まっている。」 「お前もか。俺も同じだ。」 「そうか。お前もか。」 「もっとちゃんと勉強しておけば良かったなあ。」 「確かに。」 「もしやり直せるのならやり直したいよ。今は真剣にそう思える。」 「そうだよな。その通りだ。」 面談の結果は予想していた通りだった。これまでの成績を表やグラフで見せられると僕は指導を受け入れざるを得なかったけれどこのままサボらずに勉強すれば地元の学校には十分に合格するし入学してからの勉強次第では東京の大学へも進学の可能性はかなりあることに安心し希望も感じた。そして少しだけ真面目に勉強に取り組み始めたら奇妙な遅刻は出現しなくなった。  確か小学校に入学した直後にも同じようなことのあった。しかしそれは正確に僕の記憶と言えるものではなく母や姉から後々聞いたことの混在したものである。  それによると僕は保育園も幼稚園も行かなかった。正確には行けなかった。登園拒否だったのだ。毎朝園の前まで母に連れて行ってもらいながらそこで泣き出して決して門を潜らない。朧げな遠い記憶に園庭で元気に遊ぶ子供たちを羨ましくまた怖くも感じながら離れたところから見ていたように思う。家族はそんな僕を随分心配しただろう。それを子供ながらに十分に感じ取っていたのか小学校からはどうやってでも行かないとまずいという思いはあった。それで決して晴れがましい気分ではなかったけれどランドセルを背負い小学校の門を潜り新一年生となったのだ。入学してみると学校はそこはかとなく怖さを感じるところではあったけれど楽しいと思うこともあった。一月ほど経った頃だっただろうか。ある日家の中で母の担任の先生に対する不信を父に話すのを聞いた。それは僕の遅刻に関することだった。人見知りの激しい僕は登下校も一人ぼっちのことの普通であった。毎朝ほかの子とほぼ同じ時間に家を出るもののそんな僕を心配した母は学校の門を潜るまで後ろからそっと見届けていたらしい。ちゃんと校舎に入って行くまで確認していた母にしてみれば担任から遅刻をしていると言われてもそんなはずはないとしか思われなかった。担任の先生は四月の間にはなかった遅刻の五月の連休明けに二日ほど続いたので心配したらしい。心配そうに父に話す母の声を聞いて僕は昨日と今日の朝の不思議な出来事を思い出した。いつもと同じように家を出て寄り道もせずに普通に通学路を歩いて登校したのに学校に着くともうみんな教室の中にいて一時間目の授業の最中だったのだ。一体どこでいつもとは違う時間を過ごしたというのだろう。僕には全く心当たりのなかった。もしかしたら僕の時間だけみんなの時間よりも遅くなって取り残されてしまったのだろうか。だとしたら?このままだとみんなの六年生になる頃には僕だけはまだ三年生か四年生くらいになってしまうのか。そうなったら母や父はどれほど心配し悲しむだろう。それに流石に僕だってそんなことは嫌だ。そう思うと昨日までずっと考えていたことにいつまでもこだわっていてたら大変なことになると急に不安になった。やっぱり学校なんて行きたくない。毎日家で過ごした保育園や幼稚園の頃に戻りたい。もしも戻れるのならその代わりに少しは登園してみても良いから。翌朝にはそんな気持ちはすっかり勢力の衰え普通に学校に行きできればほかの子と同じように友達と遊びたいし遊ばなければとさえ思えて来た。そうしたらいつもの通り登校すると普通に遅刻せずに学校に到着した。  もう一つ同じような経験を思い出した。  十年ほど前に今の会社で中堅に差し掛かり一つのグループの纏め役をさせられていた頃のことだ。そのグループは個性的な人ばかりでチームとしての結束は弱いけれど一人ひとりの個人プレーの十分に信頼できる好ましい人の集まりだった。相変わらず団体行動は苦手で一人ぼっちの苦にならない僕には極めて居心地の良かった。ただその中に一人僕にだけものすごく不愛想であからさまに拒絶反応を示す女性のいた。彼女はストレートの黒い髪を長く伸ばした聡明な美人であった。ほかの人とは普通に話もするし魅力的な笑顔を見せることも珍しくなかったのに僕に対してだけはどうしてなのかとにかく木で鼻を括った態度の変わらないのだった。  彼女はそのグループの担う仕事の経験も豊富で専門的な知識もスキルも申し分なかった。片や僕は他の部署からいきなり異動してきてその仕事は全くの初心者であった。彼女の僕にダメ出しをするのは当然だとしても普通に言葉を交わすことさえ嫌がり少し慣れて来ても一向にそれの変わらないのは理解できなかった。人の噂によると前にもそんなことはあったらしい。といっても随分前のことで直接見聞きした人は今はもう周囲にはいないようだ。  僕と彼女との関係というか関りの程度から考えれば彼女の冷淡な態度の原因は仕事以外には考えられない。もしかしたら僕の顔や体型あるいは服装などの彼女の許容範囲を超えてしまっていたのかもしれない。しかし仮にそうだとしてもそれをストレートに態度に出すことは彼女の聡明さに照らせば考えられない。誰かから僕の悪口を聞いて負のイメージを固めてしまったか。どちらかといえば人間関係には消極的な方で積極的に関りを持つ人は少ないし強引に付き合を推し進めることもないから極端に悪く言われることはないようには思うけれどこれは分からない。  一年過ぎても彼女の態度は変わらなかった。ほかの人とは一年間一緒に過ごした分かあるいはそれ以上に親しくなっているように見えるのに。  その日も両隣の席の人と普通に話をしながら休憩時間になるとデパートの紙包みから美味しそうなお菓子を取り出して一緒に食べ始めた。お菓子大好きな僕の何度も目にしてきた羨ましい光景だった。それでその日は図らずも彼女に後ろから声を掛けてしまった。 「美味しそうなお菓子ですね。」 彼女は全く反応しない。聞こえていないはずはなかった。隣の席の人の僕の方を極まり悪そうにちらりと見たから。それで僕は少し意地悪な気持ちになった。お菓子の話を無視された仕返しもしたくなった。この一年冷淡な態度を取られ続けて我慢してきたこともそれを後押しした。それにもしかしたら彼女との関係を劇的に改善する妙案かもしれないという確証のない期待もあった。  僕は折を見て密かに彼女を別室に呼び出した。彼女は表情を変えることなくついてきて一緒に部屋に入ると白い机を挟んで向かい合って座った。もしかしたら彼女は笑ってくれるかも。いつもとは違う環境下で向き合えば愛情から出てくるものではなくても微笑くらいは浮かべてくれるかしれないと仄かに抱いた期待はその時早くも崩れ落ちた。やばい。しかしもう引き返せない。いやまだ間に合うか。しかしいつもと同じ硬い表情のままの不機嫌な彼女を前にして最初の思い付きを変更してアドリブで進めることはとても無理であった。 「忙しいところを済みません。ちょっとだけ話をしても良いですか。」 正面から彼女の顔を見るのは初めてかもしれなかった。多分そうだ。やはり随分と目鼻立ちの整い理知的に見える。 「はい。できるだけ手短にお願いします。」 いつものように全身から拒絶オーラの発散している。 「実はですね。あなたは僕のことをお嫌いのようです。正直に言うと僕もあなたは嫌いです。」 「はあ?」 まあそうだろう。彼女の場合正面切って嫌いと言われたことなどないだろう。言ったことは何度もあるかもしれないけど。 「それでですね。」 「はあ・・・」 「今からなぜ僕はあなたを嫌いなのか言わせてもらおうと思います。なのであなたにも教えてほしいのです。僕の嫌いなところを。」 「はあ?」 「ではお伝えしますよ。あなたは僕にお菓子をくれない。ほかの人にはお裾分けして一緒に美味しそうに食べているのに僕にはくれない。ぼくはあなたのそこのところを嫌いなのです。」 「はあ?」 彼女の声の大きくなった。そして少し笑った。しかしそれは僕の期待と全く相反するあからさまな冷笑であった。 「そんなことを言うために呼び出したのですか。私忙しいのでもう良いですか。失礼します。」 彼女は何の余韻も残さずに瞬く間に部屋を出て行った。この場面に期待していた笑顔の名残など欠片も落とすことなく。  その日からぼくはずっと後悔の日々を送っていた。僕はあくまで事実を言ったまでだ。その事実はおそらく笑って済ませるられに違いなかったから仄かな期待を抱きながら。しかし「あなたを嫌い」という上の句と「お菓子をくれなかったから」という下の句はまるで繋がらなかった。初めて向き合った時に少しでも微笑みあえる間柄でもなければやはり言うべきではなかったのだ。できることなら言ってしまう前まで戻りたい。そう思い激しく後悔した。その翌朝からいつもの通り出勤するのに遅刻してしまうという不思議な現象の出現した。  それから数日後に突然に彼女の転職の明らかになった。豊富な専門知識と高いスキルの評価されてもっと大きくて条件の良い会社に引き抜かれたのだ。これでもういよいよあの失態を挽回するチャンスはなくなった。せめて彼女に心の底からおめでとうと言おう。無視されるに決まっているけれど全然構わない。それしかできないから。そう思った翌朝からは不思議な遅刻は解消された。  不思議な遅刻はどうやらやり直したいと痛切に思っている時に生じているようだ。確かに今は出来ることならやり直したいと思っている。もうすぐ定年退職を迎える年齢になりこれまで生活の為と言い訳しながら中途半端な気持ちのままとりあえず毎日出勤し続けて来たこの仕事もお終いになる。果たしてこれで良いのだろうか。今からでも本当にやりたい仕事に本気で打ち込みあっぱれと語り継がれる手柄の一つでも立てなければこの先をのこやも空しくあるべき万世にと後悔に涙するかもしれない。しかし本当にやりたい仕事って?そんなもの簡単に見つかる訳はない。よしやあったとしてもそれに一日の生活の全てを注ぎ込むことなど誰にでもできることではない。それに小学生の時は不思議な遅刻で僕の時間だけ遅くなっているように思ったのに五十を過ぎた今は逆に僕の時間の誰かに奪われているか漏出していて短くなっているとしか感じられない。どこかで時間の感覚の真逆になってしまっている。例えまだ僕の一日の二十四時間だとしてもやり直しのためにそのうちどれだけの時間を費やすことのできるだろう。飯を食う。そのための準備や後片付け。風呂に入り洗濯だってやらなければならない。掃除だって必要だし片付けは毎日コツコツと時には大掛かりに取り掛からなければならない。全部自分でやらないとしてもそれらと無関係ではいられない。何もせずにぼんやりしたい時だって少なくはない。ネットを見ればいつの間にか時間は経ち日の暮れればビールだって飲みたくなる。そして心地よくなれば眠たくもなる。もう一度やり直すにしても時間は限られている。  そうこうしている間にも時は過ぎて行く。できることならやり直したい。しかしまずやらなければならないことは僕の時間の短くなって行くのを止めることだ。一日でも早く。できるならば明日の朝にでも早速に。  
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