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そぼ降る雨の夜、環摩莉子は小走りで斎場に向かっていた。一時間ほど前、社長から急な外線が入り、「私の代わりにお通夜に行って欲しい」と指示されたのだ。せっかくの金曜日だし、定時で上がって美味しいお惣菜でも買って帰るかと思っていたのだが、社長秘書としては断れない。
「承知しました」と、表向き快く引き受け、慌てて総務に寄って喪章と数珠と筆ペンを借りた。
駅から斎場までの道すがら、コンビニで香典袋を買い、イートインのカウンターで表書きを書いた。ようやく一息ついて、スマホの時計に目を落とす。すでに通夜は始まっているが、あと五分も歩けば斎場だ。慌てることはない。化粧を直してから向かおうと腰を上げ、店の化粧室に足を向けている途中で香典を用意していないことに気がついた。ATMで十万円を下ろし、化粧室の中で包んだ。
斎場までの通りには、喪服姿で道案内を掲げる若い男女が、随所に立っていた。弔問客と思しきスーツや喪服の人たちも、ぞろぞろと同じ方向に向かっている。
中堅の工業部品メーカー澤田テクノスの会長が逝去したのは、一昨日のことだった。享年九十五歳。一代で年商二百億円を誇る会社を育てた、業界では有名な立志伝中の人物だ。
摩莉子が派遣社員として勤めているナカミネ商事とも古い付き合いのようで、ナカミネの初代社長と亡くなった澤田会長は、昵懇の仲だったらしい。
大きな斎場の入口から連なる弔問客の列に並んだ摩莉子は、妙な忌避感を感じた。摩莉子は霊能力を持っていて、嫌な予感がよく的中する。たいがいは何か事件が起きてから、これだったのかと腑に落ちるのだが、いつもの胸騒ぎとは毛色が違った。忌避感の正体がわからぬまま、摩莉子は記帳の順番を待った。
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