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3
澤田は中学卒業後、旋盤工として町工場に就職した。自分は中卒でいいが、これからは学歴社会になる。弟や妹は大学まで出してやりたい。それには金がいる。そのためには早く偉くなるんだと、澤田は寝る間も惜しんでがむしゃらに働いた。
「誰よりも遅くまで工場に残って、どうやったら世界品質の工業部品を作れるのか、寝る時間を削って研究してた。それが後の澤田テクノスに発展したというわけです」
澤田のような人物がいたからこそ、高度成長期に世界に誇れる日本企業がたくさん育ったのかと、摩莉子は畏怖の念を抱いた。
「ところがあるとき澤田さんは、寝不足のまま旋盤を使ってて、誤って左手の小指を飛ばしてしまった」
「え、そんな事故が」
「ええ。だから澤田さんの左手の小指は第一関節から先がない。もっとも本人は、そのおかげでヤクザにからまれたことがないって笑ってましたよ」
川村は懐かしそうに声を立てて笑った。
仕事漬けの毎日で、何の趣味もない澤田だったが、十八のときに、初めて恋をした。相手は吉原の遊女で、名をさゆりといった。
さゆりは口減らしのために身売りされた憐れな境遇で、澤田はさゆりと逢瀬をかさねるうちに、俺がこの娘を救ってやるんだと心に誓った。
「なんだか素敵なお話ですね」摩莉子が目を細める。
「そうでしょう。澤田さんらしい、男気のある逸話なんですよ」
川村は満足げにビールで喉を潤すと、話を続けた。
さゆりも男気のある澤田に惹かれ、両想いになった二人は、駆け落ちの約束をした。遊女を遊郭から足抜けさせるには多額の金が必要だったが、若い澤田にそんな金はない。駆け落ちだけが唯一、二人が一緒になれる方法だった。
そして約束の日。そっと店を抜け出たさゆりは、待ち合わせの場所に走った。店に怪しまれないように着の身着のままで、裸足だったという。
しかし、待ち合わせの時間を過ぎても澤田の姿は見えない。それでも信じて待ち続けたさゆりの耳に、空襲警報が鳴り響いた。
「戦時中のお話だったんですね……」
息を吞むように両手で口元をおおう摩莉子に、川村が頷く。
空襲警報が鳴り響くなか、さゆりは澤田を待ち続けた。皆防空壕に避難し、周りには人っ子ひとりいない。それでもさゆりは澤田を待っていたが、現れたのは、空を真っ黒に埋め尽くすB-29爆撃機だった。
前の年の暮れから続いていた米軍による空襲は、年を明けてより一層激しさを増していた。ましてや工場は、ピンポイントで狙われる。澤田が勤める工場は一旦操業を停止し田舎に疎開することになり、澤田も連れていかれたのだ。
「じゃあさゆりさんは、そのことを知らないでずっと……」
「ええ……」と、川村。
東京大空襲による死者数は十万人以上で負傷者は十五万人ともいわれている。1945年当時の東京は木造家屋が密集していたため火の回りが速く、焼かれながら死んでゆく人々の阿鼻叫喚は、まるで地獄絵図のようだったという。
「それで、さゆりさんは……?」
「疎開から戻った澤田さんは、方々で聞いて回ったらしい。すると、みんなが逃げなさいと声をかけても、迎えが来るからと頑なにその場を離れなかった少女がいたと……おそらく逃げ遅れて……」
「そんな……澤田さん、悔やんだでしょうね……」
「それはもう、ずっと悔やんでましたよ。もちろんその後は今の奥様と結婚して子宝にも恵まれ、充実した人生だったと思います。ただ、あのとき約束を破った罪は一生拭えないって、酔うと口癖のように……」
「澤田さんもお辛かったでしょうね……」
「そう。だからあの人の働きぶりは、まるで自分の躰を痛めつけているように見えました。躰を酷使して早く死ねば、あの世でさゆりさんに会える。そう思っていたんじゃないかな……」
「それでさきほど、澤田さんは死に急いでいたって……」
川村が頷く。
「それが皮肉なことに、がむしゃらに仕事したことで澤田テクノスという立派な会社を残し、九十を超えるまで長生きされた。人生皮肉なものです」
「……でも今ごろ、天国でさゆりさんとお会いできて、喜んでいらっしゃるかもしれませんね」
摩莉子の言葉に川村はにこりとして、
「さあ、お寿司でもつまんでお暇しましょう」と、摩莉子を促した。
予想外の素敵な話に、記帳の列に並んでいたときの不吉な予感は無用の不安だったのかと、摩莉子は気持ちが軽くなった。
「はい、私もいただきます」と、摩莉子が寿司桶に箸を伸ばしたとき、川村の左隣りに座っていた老人が、「今の話、あたしも聞いたことがあるんですがね」と、突然話に割って入ってきた。
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