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第一章 こんな出会いって、アリですか?
――洋菓子店として、どんなに忙しくても、おれはやっぱりクリスマスが好きだ。
栗田リスオ(くりた・りすお)はいつもそう思う。
冬空に星が輝き、街は赤や緑の色彩で溢れる。商店の並ぶアーケードは、華やかなクリスマスツリーを飾る。ポップスは、甘くて切なくて、人恋しくなるような曲ばかりだ。
その中で毎年夜明け前から厨房に籠り、肌に甘い匂いを染みつかせてひらすらケーキを作る。秋頃から焼き貯めたスポンジを解凍し、生クリームをボウルに何十杯も粟立てる。新鮮な苺を一つ一つ並べる作業は最も集中力を要する。予約のクリスマスケーキや、当日店頭に並べる用のケーキや、小物のケーキや、他にもデコレーションケーキまで用意するので、てんてこ舞いだ。
そして陽が昇り開店時間になると次々にお客が来る。子供連れの母親や、制服姿の高校生や、デートらしきスーツ姿の若い男性もいる。その誰もが想いを込めて作ったケーキを受け取り、嬉し気に目を細めたり、今夜のパーティーの話で盛り上がったり、サンタクロースはどんなプレゼントをくれるだろうか、と笑い合う。彼らを見るとリスオは眠気など吹き飛び暖かな気持ちになるのだ。
(ケーキは人を幸せにする。それがおれのモットーだ)
「いつも思うんですけど、やっぱりケーキの力ってすごいですよね。どんな暗い顔したお客さんも、ケーキを受け取ると幸せそうにしますし。おれあの瞬間は、本当にケーキ職人になって良かったって思うんですよ」
リスオは言った。
東北のM県S台市にある小さな洋菓子店、〈パティスリー・マシェリ〉の厨房。巨大な冷蔵庫や、銀色の作業台や、火の入ったオーブンが並ぶ面白みのない空間に、九月の強い朝日が差し込んでいる。
リスオは、まるで栗鼠{りす}のように愛らしい青年だった。
年齢は二十五歳。身長百五十五センチの小さな体躯に、白い製菓服。ハンチングに似た茶色の帽子。その下には、リスの遺伝子を引く、小さな耳が隠れている。臀部からは、ふさふさした太い尾が伸びる。栗色のやわらかな髪は、頬の辺りでふんわりとウェーブを描き、まるで頬袋のようだ。すっきりした輪郭に、小さい鼻。ぽってりとした桜色の唇。ぱっちりとした紅茶色の瞳は、いつも生き生きと輝いている。
リスオを初めとする、この世界の人々は猿だけではなく様々な動物の子孫だ。いわゆる半獣人である。犬や、猫や、兎など、多くの属性がある。特徴として、自分が血を引く獣の耳や、尾が生えていた。
リスオには出来ないが、中には完全獣化できる者もいるらしい。そういう人は大抵は高貴な血筋だ。
この世界を、皆、もふもふ現代社会と呼んでいた。
「おいおい。まだ九月だってのに、クリスマスの話はやめてくれ。去年の激務を思い出す」
リスオより四つ年上の馬淵進(まぶち・すすむ)が言った。使用済みの大きな銀のバットを重ねて、両手で持っている。
馬の遺伝子を受け継ぐ彼は、すらりと背が高く、脚が長い。反り返った耳と、紐のような尾を持っている。今は襟足で纏めているが、普段は長い黒髪をポニーテールにしていた。彼は店主夫婦のひとり息子だ。
〈パティスリー・マシェリ〉は、おととし出来たばかりのケーキ屋だ。脱サラした馬淵夫妻と、一人息子の進が経営している。従業員は、リスオの他には、数人のパートタイマーしかいない、こぢんまりとした店だった。
「いいんです、一番好きな季節なんですから。ああ、楽しみだな」
リスオはスライスした苺をまな板に寄せる。店用のデコレーションケーキに使うものだ。
「俺らにとっては、悪夢の時期でもあるけどな。今年もオール、頼んだぞ」
「もちろんです。完徹がんばります」
クリスマスは、最も忙しい。二十三日の夜明けから、翌朝まで働かなくてはならない。土台となるスポンジは、十月頃からストックを焼き、冷凍しておく。しかし飾りの果物はそれが出来ない。なのでクリスマス近くになると、スポンジを解凍し、生クリームやフルーツなどで、仕上げをする。
当日は、ひたすらデコレーションをしたり、意外と売れるクッキーやマカロンなどの焼き菓子を補充したり、ひっきりなしに来るお客さんの相手をするだけで、あっという間に一日が終わるのだ。
「さすが若い分体力あるな。……っと、やばいっ」
リスオの後ろを通り過ぎようとした馬淵が、ツルリと足を滑らせ、体勢を崩した。床が濡れていたらしい。ガシャーン! とバットがリスオに当たった。
「うわっ」
音は派手だが、それほど痛くなかった。
「悪い!」
「いてて……」
「大丈夫だったか?」
心配そうに馬淵が訊いた。
「あはは、ぜんぜん平気です。おれ、丈夫なんで。子供の頃、じいちゃん家で遊んでた時、階段から転げ落ちたけど、無傷だったんですよ~。――むしろ、進君こそ大丈夫ですか?」
リスオはニッコリした。えくぼが浮かび、可愛らしい笑顔である。
「俺は平気だよ。全く……。優しいんだか、あほなんだか」
馬淵は呆れたように溜息をついた。
「えへへ」
「お前がいいのは顔だけだよ」
馬淵は腰を折り、散らばったバットを拾い集める。リスオも馬淵を手伝う。
「ひどいなあ。おれって顔しか取り柄ありませんか?」
「まあ、見た目だけはアイドル級だな。ちっこくて、目がぱっちりして、笑顔は可愛い。デビューしたら、さぞお姉様方に可愛がられるだろう。小動物系男子ってやつだ」
「そうかなあ? でもおれ、芸能界に入る気はありませんよ。ケーキ作り一筋なんで! パティシエはおれの転職っす」
「そういうことは、スカウトされたら言ってくれ。おし、これで全部だ。サンキュ」
「いえいえ。どういたしまして」
二人はバットを所定の位置に戻した。
「――ところで例の件進んでいるか?」
馬淵が言った。
「……!」
リスオはぎくっとした。だらだらと漫画みたいに汗が流れる。
「え、えーとですね……それに関しては……」
ごにょごにょとリスオは続ける。彼の不審な様子に気がついたのか、馬淵が凜々しい眉根を寄せた。
「まさか、まだ手をつけてないとか言わないよな? お前が担当するって言ったんだぞ。『クリスマスケーキの企画は、子供の頃からの夢だから』って」
「あははー、ちゃんとやってますって」
「本当だな? あの『全世界デコレーションケーキコンテスト』に出すんだぞ? 半端なものは許さないからな。やるからには、天辺狙うぞ」
ぎろりと馬淵が睨んだ。
「わ、分かってますよぅ」
(ひえー、どうしよう。まだデッサンすら描けていない、なんて言えないよ……)
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