8. 遠花火(とおはなび)

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8. 遠花火(とおはなび)

 病院の中には入らず、外周の道から眺めながら駐車場へと戻る。  日は天頂から容赦なく照りつけ、木陰を選んで歩いても、呼吸する空気すらムッとする熱を含んでいた。薫の足取りは、自然と重くなる。 「薫くん、大丈夫?」 「…はい」 「疲れたよね。そろそろ昼ご飯、行こうか」  薫は陽太郎の言葉に素直に頷いた。  先ほど小島がチケットをくれたパスタ店へ立ち寄ったが、閉まっていた。 「お盆休みだって」  陽太郎が苦笑する。 「チケットは、また今度使おう。薫くん、何か食べたいものある?」  空腹のはずだが、あまり食欲が湧かない。 「あっさりしたものなら…」 「もしかして、少食?」 「そういうわけじゃないんですけど、暑くて、ちょっと……」 「そっか、そうだよね。…じゃあ、ファミレスにしようか。何でもあるし」  街道沿いの店へ入る。 夏休みということもあり家族連れで混んでいたが、幸いそれほど待たずに座れた。  クーラーの効いた店内で氷水を飲むと、薫はほっと息をついた。  エビとトマトの冷製パスタは、普通においしかった。けれど、がつがつ食べる元気は、さすがにない。  陽太郎に彼女がいると知っただけで、こんなにダメージが来るとは思わなかった。暑さと疲れと失恋のトリプルパンチ。  直接当たって砕けたわけじゃないけど、話の流れで彼女がいると知って失恋、というのも、意外ときついんだな……そんなことを考えながら、薫は黙々と咀嚼しては飲み込んだ。  病院の御曹司で高身長高学歴イケメン医学生――こんな人を、周囲が放っておくわけがない。わかっていたけれど。 「薫くん、もしかして、どこか具合悪い…?」  陽太郎は心配そうに眉を寄せると、黙り込んで食べる薫へと手を延ばし、ふいにおでこに触れた。  突然のことに、薫は思わずびくっと身を引く。 「あ…すみません」  あからさまな反応をしてしまったことに、思わず赤くなる。 「こっちこそ、ごめん、急に触って。でも、そんなに熱くないから、熱中症は大丈夫かな」 「…はい。たぶん、ちょっと疲れただけだと思います」 「慌てなくていいから、ゆっくり食べるといいよ」 「ありがとうございます……」  気遣うような陽太郎の声に、申し訳なさが募る。  このままじゃ、ダメだ。  せっかく陽太郎さんが大学を案内してくれたのに。せっかく一緒にご飯を食べる、なんて、夢みたいなシチュエーションなのに。  勝手に一人沈んで、心配かけている。  ――立て直さないと。  薫は顔を上げ、心配そうな切れ長の目をまっすぐ見た。 「大丈夫です。食べたら少し元気出て来ましたから」  意識的に口の端を上げる。  何かで読んだことがある。笑顔を作ると、気持ちも連動して上向きに変化する、と。  陽太郎さんの彼女には悪いけど、今日、帰るまでは、独り占めさせてもらう――単なる地元の後輩としてだけど。          ◇  ファミレスを出た陽太郎は、薫を高台にある緑地公園へと連れてきた。  坂の上にある駐車場の一角が展望コーナーになっており、町が一望できた。 「あっちが駅で、駅近くに下宿してるのも多いし、駅からは離れて不便だけど大学近くに住むのも多いかな」  周囲のカップルや家族連れは、仲良く寄り添って風景を眺めたり写真を撮ったりしていた。  陽太郎は山から吹き下ろす風にさらりとした髪をなびかせて、遠く目を細めていた。薫は、ちらりと盗み見る。  カッコいい。素直に惚れ直してしまう。 「ん? 何、薫くん」  陽太郎に気づかれてしまった。 「いえ…」  見とれてました、なんて言えるはずもなく。 「こっち来て、薫くん」 「…?」  陽太郎は、ここ、と自分の隣を指さす。 「せっかくだから、記念撮影。はい、笑って」  スマホをかざすと、眼下に広がる町を背にぱしゃりと自撮りした。 「後でSNSに送るから。あ、薫くんのスマホでも撮る?」  そんなことを言われたら、うなずくしかない。陽太郎とのツーショットなんて、欲しいに決まっている。  薫がカバンからスマホを取り出そうとしていると、横にいた女の子二人連れから、 「あの…すみません。撮ってもらっても、いいですか?」 と声を掛けられた。陽太郎が撮ってあげると、女の子の一人が、 「撮りましょうか?」 と、気を利かせてくれた。薫がスマホを差し出す。  陽太郎と二人並んで、撮ってもらう。  失恋した日に失恋した相手とのツーショットを撮ってもらうって……と、心の中でぼやきながらも、純粋にうれしい気持ちもある。  写真を見ると、笑顔の陽太郎と自分が並んでた。  カップルに見えなくもないのが、うれしくて虚しくて、つらい。 「そっちの写真、俺にも送ってくれる?」 「これ、ですか?」 「さっきの子、撮るの上手いね。俺の撮ったのはちょっとボケてるから」 「いいですよ」  陽太郎は、薫の髪をくしゃりと撫でた。 「そろそろ、帰ろうか。薫くん、勉強しなきゃでしょ」  タイムリミットは来る。 「…はい」  帰りの車の中は、静かだった。音楽を聴きながら、時々話すぐらいで。  だが。  行きよりも交通量は断然多く。  前方にテールランプの連なりが見え始め、程なくして、車列は止まった。 「うわ。思いっきり渋滞してるね」 「…そうですね」  カーナビの画面でも、真っ赤なラインがずっと続いている。 「お盆の帰省ラッシュだから、仕方ないけど…。薫くん、ごめん。もっと早く出ればよかったね。この調子だと、着くのは結構遅くなるかも。家の人に連絡しておいて」 「大丈夫です。明日も塾休みですし」  陽太郎と一緒にいられる時間が長くなるのは、自分にとって、ラッキーなのかどうか。  昼間のつらい気持ちは、だいぶ落ち着いた。凍った心が消えたわけではないけど、どうしようもないことは、飲み込むしかない――陽太郎への想いを自覚してから、何度もして来たことだ。  渋滞は遅々として進まない。  先ほどから、路肩をパトカーが赤色灯をつけて走っていく。  交通情報を聞くと、どうやらこの先で事故が発生したようで、塗り固められたように、車列が動かなくなった。  橙色の夕焼けが広がっていた空に、夕闇が降りていく。  暗い空のどこからか、ドン、…ドン、ドン…と、低く響く音が聞こえてきた。 「雷…?」 「いや。花火…かな」  ちょうど、東側に開けた場所にいた。前方の車からぱらぱらと人が降りて、東の空を指さしている。  本当は、高速道の路上に出るのは危険なことだけれど。 「あ…見えたよ、薫くん。ほら、この辺から見てごらん」  陽太郎に誘われるまま、運転席側へと身を乗り出す。陽太郎の肩と自分の肩が触れる。顔が近い――  東の空低くに、赤色と白、黄色の花火が小さく見えた。だいぶ遅れてドン、ドンドンッと音が聞こえる。 「港の花火大会か…」 「そんなの、ありましたね」  昔、親に連れて行ってもらった記憶が微かにある。 「薫くんと花火を見れるとは、思わなかったな」 「…?」  どういう意味なのか、一瞬戸惑う。  まあ、確かに、こんな渋滞に巻き込まれなければ、陽太郎と自分とが花火を見ることはなかっただろう。 「薫くんがうちの大学に受かったら、来年の夏は一緒に見に行こうか」 「…え?」  意味がわからない。  花火って、恋人と行くイベントじゃないんだろうか。仲良い友達と行くのもあると思うけれども。  それとも、もうすでに彼女とは何度も行ったから、飽きちゃった…とか?   だから後輩を誘ってみた、とか。  それならわかる。けれども。 「あの…陽太郎さん。彼女さんとは、行かないんですか…?」 「え?」 「花火。…普通は、恋人と行くんじゃないかな…って思って」  薫の言葉に、陽太郎は何とも言えない表情を浮かべ、しばらく東側の窓にいくつも光っては消える光の粒を見ていた。 「それは、ないかな」  陽太郎はぽそりとつぶやいた。  ……?  意味がわからない。 「小島が余計なことを言っちゃったからな……」  ため息混じりに、陽太郎はつぶやいた。 「…え」 「俺の彼女の話だけど」 「…」  聞きたくない。本当は今すぐ耳を塞ぎたい。 「あれ、嘘なんだ」  東の空には、白い大きな枝垂桜のような大輪の花が咲く。 「嘘…って」  どういうこと…? 「彼女がいないと、周りが色々うるさくて。…だから、地元に彼女がいるってことにしている。本当のことを知ってるのは、仲良い友人一人だけ。……だから、薫くんは、二人目」 「…俺なんかに、言っちゃっていいんですか?」  陽太郎さんの秘密。恐らく、トップシークレット。かも。 「薫くんは信頼してるから」  そんなことを言われると、うれしくなる…から。やめて欲しい。 「俺、誰にも言いません」 「…ありがとう」  陽太郎の腕が伸びて、薫の髪をくしゃりと撫でた。そのまま、薫の柔らかな髪に指を埋めるように何度も梳く。  鼓動が、勝手に早くなる。  何で、そんな優しそうに撫でるんですか――  薫は顔を上げられなくなる。 「だから、来年、一緒に花火見に行こう…」  薫の頬を、陽太郎の指が触れる。  まるで愛おしそうに頬を触れる指に、心臓が跳ねて、跳ねて、止まらなくなる。  頬が、耳が、熱い。
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