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夏休みのとある午後。
薫は、2年生の哲矢と1年生の武志と一緒に、公園で虫取りをしていたが、日中の一番暑い時間は虫すらあまり見つからない。何となくつまらないね、と木陰のベンチで足をぶらぶらさせていると、哲矢が、
「じゃあさ、俺らだけで裏山へ行ってみない?」
と言い出した。
小学校の裏手の山は、住民の散歩道として上り坂の途中まで舗装されていたが、小さな広場から先は細い山道となり、ちょっとしたハイキングコースとなっていた。
裏山へは子どもたちだけで行ってはいけません――夏休みに入るにあたり、先生からも言われたし、学校からのおたよりにも書いてあった。
でも。禁止されれば、冒険したくなる。
3人とも家族で行ったことのある道だったから、ちょっとぐらいは大丈夫だと思った。
入口近くの道の脇に、小さな赤いビーズの塊のようなキイチゴがなっていた。哲矢が摘まんで、ぱくっと食べる。
「すっぺーー!!!」
どれ、と薫と武志も口に入れる。
「まあまあ甘いかな」
「うわ、すっぱ!!」
「やっぱ、赤いのよりも黄色の方が美味しいよなー」
「うん」
「だね」
大粒で橙黄色のキイチゴの方が、断然甘くて、美味しい。
だが、その実がなっているのは、舗装された道の先の細い山道を入り、小さな山を一つ越えて、沢沿いに上ったところだった。
「黄色のイチゴのとこ、行こーぜ!!」
「おー!!」
哲矢と武志が駆け出す。
「待ってよー!!」
薫はその後ろを追いかけた。
哲矢と武志は2人とも足が速い。一方、体が細く小柄な薫は体力がなく、全てにおいてとろかった。
そんな薫のことをよくわかっている2人は、時折、道の途中でカブトムシを捕まえたり、トカゲを追っかけたり、寄り道しながらゆっくり進んだ。杉林の中の小道を上り、尾根伝いに隣の山の頂上から下り。いったん小さな沢まで降りてから、また登っていく。蝉の声がシャワーのように降り注ぐ。
薫も何とか2人に追いつき、無事、黄色いキイチゴの群生までたどり着いた。丁度食べごろの実が、たくさんなっている。
3人は目を輝かせ、甘い!美味しい!と夢中になって食べた。
夏の夕暮れは遅く、いつまでも空は明るい。到着までに結構な時間を費やしていたことに、まだ幼い3人は気づかなかった。
ひぐらしの声が山に響く。
「そろそろ帰ろうよ」と薫が言った時には、日はとうに西の山影へ入り、空には明るい夕暮れが広がり始めていた。
最初のうちは哲矢も武志も、木の棒を振り回したり、歌う余裕があった。足の遅い薫は、時に小走りしながら遅れまいと必死に着いて行く。
山の夕暮れは早い。
あっと言う間に、木々の隙間から零れる光はすうっと明度を落としていく。
まずいと気づいた2人の歩くペースが、少しずつ上がる。
「…てっちゃん……ちょっと待って……」
「薫、暗くなってきたし、早く歩けよ」
「はぁ…はぁ……歩いてるってば」
「やべー、母ちゃんに叱られる」
2人はさらに足を速めた。
「…待って……」
「俺たち先行くからさ、薫は後ろついてくればいいよ」
どんどん2人との距離が開いて行く。
背中を追いながら、焦るけれどもなかなか追いつけない。
「もう……待ってよ……」
ついに薫は立ち止まった。足が痛い。両膝に手を当て、荒い息を整えるため、深呼吸する。
ふと、甘い香りが鼻腔をかすった。
なんだろう…。
薫は周囲を見回した。
行きには気づかなかったが、白桃色の大ぶりの花をいくつもつけた百合の花が山の斜面に群生していた。そして、その花の周りを、たくさんの空色の蝶が舞っていた。
少し湿気を帯びた夏の夕方の特有の空気に、蜜の香りが濃厚に漂う。
その中を、向こう側が透けて見えそうな淡い青い羽根がふうわりふわりと滑空する。そこかしこに蝶の群れ。
幻想的な景色に、薫は見とれた。
ほんの数分だったか。
はっと気づいた時には、道の先に見えていた2人の背中はなかった。
「てっちゃん!! たけちゃん!!」
耳を澄ましても2人の声は全く聞こえず、時折、風が木々の葉を揺らす音だけだ。
薫は駆け出した。
が、懸命に走っているのに、なかなか進まない。笹の葉がかすった脛から、細く血がにじむ。
木々が鬱蒼と茂る三叉路で、再び薫の足が止まった。
どっちだっけ……。
来る時は、一本道のような気がしていた。哲矢の迷いのない足取りにただ着いて来ていた薫は、ろくに周囲を見ていなかった。薄暗い山中では、どちらの道が正しいのか、さっぱりわからない。
たぶん、こっち。
きっと、こっち。
心細さにじわりと涙がにじみ、視界が歪んだが、薫はまた走り出した。
平らな道でも足が遅いのに、でこぼこした粘土質の道はさらに走りづらい。
焦る。息が上がる。
足が痛い。心臓がこれ以上速くは打てないと悲鳴を上げる。
そこここに積もったふかふかの落葉から、湿った土の匂いがした。
いつもの父との散歩なら、この大好きな匂いを胸いっぱいに吸いこむところだが、そんな余裕はない。
岩に足を取られながらも、坂道を登っていく。
やっと坂の頂上だ。薫はしばし立ち止まり、呼吸を整えた。
はあっはあっはあっ……。
強い夕風が木々の梢をごうっと鳴らして吹き過ぎた。ぎしぎしと木々の枝葉がこすれる。
濃い橙色の夕暮れは、もう空いっぱいに広がっていた。
空全体から山々へ不気味な闇がそうっと降りてくるようだった。
今度は長い下り坂だ。もつれる足で必死に駆け降りる。
昼の山は明るい友達のように迎え入れてくれるけど、夜の山は得体のしれない何かが潜んでいるようで、恐怖がじわじわと襲って来る。
怖い……!!
薫は泣きながら走った。
と、その時。
左側の巨木から張り出した根に足を取られた。
あっ、と思った時は体が宙に浮き、腐葉土の積る道に叩きつけられ、そのまま坂の下へと、ごろごろと転がり落ちる。
とっさに道脇に生えるシダを掴もうと手を伸ばしたが虚しく空を切り、次の瞬間、古い切株にしたたか頭を打ち付け、薫は気を失った。
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