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また、陽太郎とあの女子高生に出くわすんじゃないか――
その後しばらくの間、薫は塾への行き帰りのたびに周囲を見回したが、それ以降、陽太郎に会うことはなかった。
よくよく考えたら、陽太郎は高3の受験生だ。きっと、忙しいんだろう。彼女とデートするどころじゃないのかも――そんなことを考えて、薫は少しほっとした。
ほっとするってなんだよ。
憧れのお兄さんに恋人がいるのが面白くないって、子どもじみている。幼稚園児がだだをこねているみたいで、すごくカッコ悪い。
でも、あの時のことがふと記憶に上ると、やっぱりどこかモヤモヤしてしまう。
ガキだな――
今まで自分のことを「僕」と言ってたのを、何となくカッコ悪く感じて「俺」に変えたりしたのに。
相変わらずのチビで細くて童顔の自分。周囲の友達はすでに声変わりし、顔かたちも背格好も、どんどん大人へと変化していくのに。
最近なんて、見知らぬ先輩に「お前、女か?」とからかわれることが増えた。
「……はあ」
柔らかな水色の春の空が広がる。
日に日に暖かくなる日差しの中、薫は春休みの部活へ向かうため、人のいないのどかな田舎道を一人歩いていた。
「薫くん?」
中学への通学路の途中のバス停に、陽太郎がいた。
春らしい軽めのコート姿に、旅行にでも行くようなカートが足元にあった。
「陽太郎くん…あ、陽太郎先輩」
陽太郎が、にこりと笑った。
「いいよ、照れくさいから、今まで通り”陽太郎くん”で」
「…でも…先輩ですから」
「じゃあ、”陽太郎さん”かな」
「…陽太郎…さん」
なんだか、こっちの方が自分としては余計に照れくさい。
「薫くんは、部活?」
「はい」
「何部?」
「…陸上です」
「え? そうなの!? じゃあ、俺の後輩?」
さすがに小1の頃よりはましになったが、中学ではひ弱な自分を変えたくて、運動部に入ろうと思っていた。チーム競技は、きっと足を引っ張ってしまいそうだから却下で。
たまたま廊下清掃の時、学校玄関にずらりと並んだトロフィーや盾の中に、陽太郎の名前を見つけた。陸上の県大会で入賞していた。
――陽太郎くん、すごい。
真似して陸上部に入ったところで、とても陽太郎の足元にも及ばないが、一人でこつこつやれそうなのと、体験入部したら雰囲気が良かった。運動部特有のピリピリがつがつしたところは全くなくて、外部コーチの下、それぞれが自分の課題に向き合って練習していた。
薫はコーチの勧めで短距離を選んだら意外と性に合い、1年間続けることができた。
「…はい。短距離やってます。全然遅いですけど……。俺、体力ないから、着けたくて」
陽太郎はうれしそうに目を細めた。
「そうか。がんばってるね、薫くん」
「はい。…陽太郎さんは、どこか、旅行ですか?」
「…だと、良かったんだけど」
ほんの僅かに、ため息が混じっていた。
何か、よくないことを言ってしまっただろうか――薫が不安げに見上げると、陽太郎は薫の髪をくしゃりと撫でた。
薫の心臓が、跳ねる。
昔も、時々、陽太郎はこうして自分の頭を撫でることがあった。
――がんばれ、大丈夫、あともうちょっとだから。
えらいね、がんばったね――……
「俺…大学全部落ちちゃってさ。…東京で、浪人するんだ」
「えっ……」
薫は固まる。
――え?…え?……
「運も実力の内って言うけど、なんかね、ことごとくダメだった。模試は割と良くて、大丈夫、行ける、と思ったんだけど、結局、全敗だった」
なんでもないことのように、軽い口調で。
陽太郎の大きな手が、自分の髪を、何度も梳く。
「まあ、背水の陣で1年修行してくるよ。来年の今頃は、絶対に笑ってやるって、ね」
薫は何も言えなかった。
自分はまだ中学1年を終えたばかりで、受験のことなんて何もわからない。
いつだって、何でもさらりとカッコよくこなす陽太郎くんが。
平気そうに話す言葉の端々から、悔しさややるせなさがにじみ出て来るようで。
陽太郎は薫の髪を、繰り返し何度も撫でる。
壊れたレコードみたい――そんなフレーズが頭に浮かんだ。
心臓がぎゅうっと力いっぱい絞られるみたいに、痛い。
でも、自分には何もできない――
「今日から東京の予備校の寮に入るんだ。たぶん、来年受験が終わるまで、こっちには帰らないつもりだから」
薫は背の高い陽太郎をはっと見上げた。
陽太郎のいつも穏やかに笑っている目が、しんどそうに細められていた。
「薫くん、俺に”がんばれ”って言ってくれないかな」
北国の春は、まだ枯草色だ。遠くの空で、ヒバリがピチュピチュと春を告げている。
これから桜がほころび、山々は淡い萌黄色から徐々に新緑に色を変え、花が次々と咲き出す。緑濃い夏にはあのアサギマダラが飛来しては去り、鮮やかな紅葉の秋を経て木々が葉を落とすと、雪がちらつき始め、冬が来る。灰色の雲からしんしんと雪が降り積もる――
でも。
そこに、陽太郎は、いない。
次の春まで。
陽太郎は一人、見知らぬ土地へ行く。
一人で、戦いに行く。
薫は、陽太郎のコートを思わず掴んだ。
笑みを消した切れ長の二重を、まっすぐに見つめる。
「陽太郎さん。がんばって…下さい。…俺、ここからずっと応援してますから。それくらいしか、できないけど」
陽太郎が、ふわりと薫を抱きしめた。
懐かしい、お日さまの匂いに、包まれる。
「ありがとう、薫くん。……勝手に君のこと、自分の弟みたいに思っていたから。大事な弟に励まされたら、兄としてがんばるしかないだろ?」
「…俺も小学校の頃、陽太郎さんがホントに自分のお兄さんだったらなーって、ずっと思ってました」
「そっか。…じゃあ、一緒だね」
陽太郎が腕を緩めて、にこりと笑った。
いつもの、穏やかな笑顔だった。
丁度、カーブの向こうから、駅行きのバスが来た。
「じゃあ。薫くんも、部活がんばってね」
「はい。陽太郎さんも。…俺、本気で、ここから応援してますから」
「ありがとう」
ステップを上がった陽太郎が、窓際の席に座り、手を振る。薫も手を振り返した。
ブザーが鳴って、ドアが閉まる。
陽太郎は、前を向いた。
その厳しい目はもうこちらを見ることはなく、前だけを見ていた。
バスが走り出す。
薫は、バスがゆるいカーブの先に見えなくなるまで、見送った。
「…やば。遅刻っ」
薫は学校へと駆け出した。
春の空でまだヒバリはさえずり続け、薫の周りには、ずっとお日さまの匂いがしていた。
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