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3. 東京で
毎朝、寮から電車で予備校へ。
陽太郎の東京での生活は、判で押したように規則正しい。
日中はびっしり授業、終わったら自習室。夕食の時間に間に合うように寮へ帰り、食べてシャワーを浴び、また勉強して、寝る。
部屋は個室で、ベッドと作り付けのシンプルな棚と机だけで余計なスペースはない。
東京へ来て驚いたのは、人の多さと、無駄な緑がないこと、やたらと駅がたくさんあること。ちょっと歩けば、地下鉄や電車の駅があり、田舎育ちにとっては、その距離でもう次の駅!?という感じだ。
予備校の医学部受験に特化した校舎には、全国各地から生徒が集まる。
薫に宣言したように、背水の陣のつもりで東京へ来た陽太郎は、当初友人を作るつもりはなかった。が、成績順の席で隣になった西河内と、消しゴムの貸し借りという他愛ないことをきっかけに話すようになった。
西河内は、東京の中高一貫校出身で、医者よりも警察官や自衛官のほうが似合いそうなガタイの、大らかな奴だった。
「あっちー。北川、おはよう」
9月というのに、東京はまだまだ蒸し暑く、西河内は朝から汗だくだ。
「おはよう。…汗拭いたら?」
「おお、すまん」
下敷きで扇いでやると、西河内はリュックから取り出したタオルでゴシゴシと汗を拭った。
「北川はいつも涼しそうだよな。さすが北国育ち」
「別に俺だって涼しくはないよ。西河内が汗っかきなんだろ」
「まあ、確かに」
そうこうしていると、講師が来て授業が始まる。
浪人生の1学期は、前年のアドバンテージがあるから、模試の成績は比較的良い。
問題は夏を過ぎた、ここからだ。現役生の追い上げ、自分の息切れ。受験期までいかにモチベーションを維持して行くか。
西河内たちと話していて、地方の高校と都会の中高一貫校と違いにカルチャーショックを受けた。西河内の学校は、高2までに全ての課程を終え、高3の1年間は受験対策だったと言う。自分の高校は、高3の12月にやっと教科書を終えた。
陽太郎は塾に通い先取りしているつもりだったが、今思えば、全国規模で戦う医学部入試では、実力も演習量も全然足りていなかった。
それなのに、現役の頃はあまり落ちる気がしなかった。今まで大きな挫折もなく、大抵のことはすんなりやれていたからかもしれない。
まるで、田舎でのほほんと育った、井の中の蛙だ――
地元の小さな小学校では、神童なんて言われていたけれど、都会に来たら、自分レベルの奴なんてゴロゴロいる。
こつこつと地道にやるしかないし、ここまで真面目にやってきたつもりだ。
が。最近、模試の結果が停滞気味だった。
果たしてちゃんと力がついているのか、この勉強方法で間違っていないか、もっと別の問題集を解いた方がいいのか……。
予備校のカリキュラムをこなしていれば絶対に受かる――そんな”絶対”があるわけではないから、余計に迷いが出る。
昨冬の二次試験会場で、問題冊子をぱらりとめくった時の、「あれ?」という違和感。日本語で書かれているはずの問題文が、思考を上滑りしていく。焦れば焦るほど、問題のどこにも指を引っ掛けるところを見つけられず、時間ばかりが過ぎていく――
そして、あの、合格発表の番号を一つ一つ確認しながら、指先から冷えて心臓まで凍りついていく嫌な感覚が蘇る――
予備校にいる時は、まだいい。西河内たちと話していると、気が紛れた。
寮の部屋が危険だった。
突如、焦りと不安がぶわりと容量を増し、自信とアイデンティティーは小さく押しつぶされ、勉強しても頭に入って行かなくなる。さらに焦る。別の問題集に手をつけるが、ちっとも進まない――底の見えない深い闇のスパイラルへと落ちて行きそうになる。
そんな時、沈みそうな自分の手を取り引っ張り上げてくれるのは、薫の存在だった。
”がんばれ”という言葉は難しい。限界までがんばっている人をさらに鞭打つこともある。だが、春の日に、まっすぐな眼差しで言ってくれた薫の言葉は、ずっと自分と並走してくれていた。
――陽太郎さん。がんばって…下さい。…俺、ここからずっと応援してますから。それくらいしか、できないけど。
あの時、偶然薫に会えて、本当によかった――東京へ来てから、何度も思った。
薫の小さな手を引いて上った小学校への坂道。
今は逆に、闇へと落ち込みそうになる自分の手を引いて、薫が明るい方へと導いてくれる。
来年の春、薫に「合格したよ」と笑顔で言いたい。そうしたら、きっと薫もあの大きな瞳をふわりと和らげて、笑ってくれるだろう。
手のひらには、少し癖のある柔らかな髪の感触が、両腕には、抱きしめた時の細くしなやかな体の感触が、凍えるような記憶を上書きしていく。
大切な弟。でも、それだけでは括れないような――……
今は、まだあまり深く考えないほうがいいかもしれない。
薫くん。来年の春に、また会おう――
陽太郎は、再び問題集を解き始めた。
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