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5. 猫のスタンプ
元々安定して合格圏内にいたこともあり、薫は順調に高校入試を終えた。
『合格しました! お守りありがとうございました!!』
報告のメッセージを陽太郎へ送ると、
『おめでとう!!』
と、かわいい猫のキャラクターのスタンプが送られて来た。
薫は部屋のベッドに寝転びながら、思わず笑ってしまう。
陽太郎とは、ごくたまにSNSでやり取りをするが、メッセージについてくるスタンプが毎回かわいい。
猫好きなのかな………
意外なようで、似合ってるような。
カッコいい憧れのお兄さん像とのギャップを知ると、また一歩、陽太郎との距離が近くなるような気がして、でもそれは危険だ、と慌てて心のブレーキを踏む。
陽太郎にとって自分はあくまで弟だ。近所の、弟みたいな子――恋愛感情からは、最も程遠いところにある存在。
その弟が自分に恋愛感情を持っているなんて知ったら、陽太郎はきっと気持ち悪いと思うに違いない。
普通の感覚は、そうだ。男という時点で、望み薄というよりも、論外。
「あいつ、そっち系らしいぜ」――中3の体育祭で、他クラスの男子を噂する言葉が聞こえた。自分のことではないのに、ひやりと氷を当てられたように、無意識に背筋がこわばった。
ビー玉を陣地から指先で弾き出すように、レッテルを張った異端者を、自分たちの安全圏から除外する――残酷だけど、学校ではよくある光景で。いじめと言うほどあからさまではなく、でも、噂された当人は、クラスの輪から何となく浮いているように見えた。
自分だって馴染んでいるように見えて、そう変わらない。
表面上は笑顔で皆に合わせ、親に「学校どう?」と聞かれたら、「楽しいよ」と答え、先生には「がんばります」と薄っぺらいやる気を張りつけて、内申点を稼ぐ――意味のない、テンプレ。
心の中に渦巻く本当の気持ちと、口から出る言葉とが、どんどん離れていく違和感。
自分は女子にあまり興味を持てないと自覚している。かといって、その辺にいる男子を好きになるわけでもない。
自分のアンテナの送受信範囲はとても狭く、とても指向性が強くて、今のところ、たった一人にしか反応しない。
ゲイと言われればそうなのかもしれないし、他の人を好きになったことがないので、そうでないのかもわからない。
でも、それはとても不毛で、どう考えても先がなかった。
田舎町で一番大きな病院の跡取り息子で。
6歳年上の、隣県の大学の医学部に通う人で。
恐らく、将来的にはあの病院の院長となる人。
振り向いてもらえるかとか、そんなレベルの話ではなくて、こんな気持ちを自分が持っていること自体が罪悪になるレベルだ。
プライバシー意識の薄く、狭い人間関係の地元でバレたらどうなることか――考えただけで気が遠くなる。
想いを向けられた陽太郎にまで、迷惑がかかってしまうだろう。きっと。
そんなことに、憧れの人を巻き込みたくない。
自覚したところでどうすることもできない想いは、自分の中に深く沈めておくしかない。
人と違う、というのは、それだけでしんどい、と知った。
マンガや小説で人を好きになることは、うれしさや楽しさ、気持ちが温かくなったりほっこりしたり、そんな暖色系で描かれることが多い。BLだって、何だかんだあっても、結局はハッピーエンドだ。
でも、現実は。
陽太郎を好きだと自覚することは、心の内に誰にも言えない秘密を押し隠し、周囲との間に見えない透明の膜を感じつつ、笑顔で「なんともない、平気だ」と自分すら欺くことだった。
だから。
たまに、ほんのたまに、陽太郎から来るメッセージのかわいい猫のスタンプに笑うことだけは、許してほしい―――
◇
高校生活は、思ったよりも順調で楽しかった。
進学校だからもっとギスギスしているのかと思ったら、各自それぞれ自分の好きなことを自分の責任でやっていい、でも行事は皆で楽しくやろうぜ、という校風で、風通しも良い。
勉強は進度が速く大変だが、それなりにやれている。
部活は中学と同じ陸上部で、練習は完全に個人別で、その緩さが性に合った。相変わらず大して速くなかったけれど、からっとした仲間たちとの関係は心地よかった。
高校3年の1学期の競技会を最後に、薫は引退した。去年より少しだけタイムが良かった。それで十分満足。
あとは、受験に本腰を入れるのみ。
「春崎は、結局どこの医学部受けんの?」
同じクラスの中尾がコロッケパンを頬張りながら、聞いてきた。薫は売店のレンジで温めた中華丼をプラスチックのスプーンで掬う。
「S大のつもり」
「え、東京とか関西とかじゃなくて?」
「うん」
「もったいなくね?」
「そんなことないよ。中尾は工学部だよな。東京?」
「一応地元も受けるけど、できれば東京行きたいよなー」
「東京で遊びたい、だろ」
「ま、ね。受かったら遊びに来いよ」
「サンキュ」
薫は、陽太郎と同じ大学が第一志望だ。
今の成績ならば安全圏で、十分狙える。
担任との面談では、もう少し上を目指したらどうだと言われた。
「浪人は嫌ですから」
ときっぱり断ったら、「そうか」と言いつつも、他の大学を勧めてきた。
学校は、より偏差値の高い大学の合格実績を上げたいからな――進路指導室のドアを閉めて、ため息が出た。
自分がその大学へ行きたい理由があれば――そこでしかやっていない研究がしたいとか、○○教授の下で学びたいとか、ちゃんとした動機があれば、目指しただろう。
自分の目標は、とにかく医師免許を取って自立すること。そして、細くてもいいから陽太郎との繋がりが欲しかった。同じ大学出身とか、その程度でいいから。
別の大学へ行き、大学院から陽太郎の大学へ戻ることもできるが、その頃、陽太郎が大学にいるとは限らない。
2年間だけでも陽太郎と同じ学校へ通いたかった――あの頃のように、憧れの先輩を仰ぐ1年生として。
小学生の頃の気持ちに、陽太郎を恋い慕うものが入っていたかはわからないけれど、憧れの人として強烈な印象を自分に刻みつけたあの背中を、今になっても追わずにいられない。
自分の将来の進路をそんな感情で決めていいものか、と何度も迷ったけれども、結局、別の道を選んだら、絶対に後悔して心が死ぬと思った。
正しいか間違っているかなんて、進んでみないとわからない。
先を行く陽太郎が、自分に振り向くことなんてない。いつかは、綺麗な女性と歩く陽太郎の後ろ姿を、あの中学の時のように遠くから見ることになるだろう。
どんな状況になっても、この想いはぎゅっと固めたペレットのように心の奥底に存在していて、消すことはできないから。
誰にも言わず。
死ぬまで持っていくと、覚悟を決めて。
追いかける―――
◇
夏期講習の合間のお盆休み。
受験生には夏休みなど存在しない――とは言うものの、お盆は塾も閉まっており、薫はいつもよりはのんびりしていた。
午前中、集中して数学の問題集を解き、結構良いペースで進んだ。
昼食後、庭に面した畳の部屋に寝転がり、化学の参考書を広げてうとうとしていた時。
「かおるー!!」
母親の声が、遠くから聞こえた。
「……んー……なに………」
「電話! ほら、北川さんのところの陽太郎くんから、電話よ!!」
「……え? え??」
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