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2
夜と共に、父の殯が明けた。
殯宮の中で、一夜をどう過ごしたのか、古志加はよく覚えていない。
ただ、闇を見つめていた。瞬きをしても、目を開けているか閉じているか、感覚を失うほどの漆黒。それらに腐臭が混ざって、次第に空気は粘着質に変わり、身体にまといつくような気になることもあった。
何も見えない閉ざされた空間で、潮騒に耳を澄ます。夢は途切れず、わずかな眠りの中で幾度となく、同じように寄せては引いていった。
隣で黒い影が身動ぎをする。その息遣いが活発になり、一人ではないのだという感覚が、古志加をほんの少し安堵させた。
祭壇を背に眠る父の棺は、清らかな明かりを灯して横たわっている。棺の蓋の中央にはめ込まれた小さな薄紅色の玉が、柴灯の光を受けて輝きを放っているのだ。その優しく淡い色は、父にはとても不釣り合いに思われた。古志加にとって父は、厳格で容赦のない野心家であり、死してもなお、その覇気が目に見えるような気がするのだ。
父の御前にしつらえられた長床に、兄は眠っている。その彼を古志加が訪ねたのは、昨晩のことだった。
兄が寝返りを打つと、僅かに腕が振れた。
(――兄上)
声をかけようとして息を吸ったが、喉の辺りに閊えたようになって、出てこなかった。
(これで、いいのかもしれない)
古志加は、衣擦れの音にすら注意を払いながら、そっと床を抜け出した。冷えた床を足裏に感じながら歩を進める。
兄はきっと、目覚めたとしても、古志加を呼び止めたりはしないだろう。
兄は静かな少年だ。声を荒らげた様子を、古志加は見たことがなかった。猛々しい父とは対照的に物腰が柔らかく、何を考えているか分からないところもあったが、古志加はそんな彼を、心から慕っていたのだと感じていた。
古志加は、祭壇の裏手側に回り、木組みの隙間に身体をねじ込んだ。殯宮は、宮といっても地方を治める一族の、質素な造作である。母屋の屋根裏や床下ですら、探せば、抜け出す隙をあちこちに持っているのだから、これくらいわけもないことだった。
「祓の刻限だな」
階の下に何者かが潜んでいる。柱に寄りかかった黒い影は、いたずらっぽく目を光らせている。そのようなことが言えるのは、貞鶴くらいなものだった。祖父の代からの腹心、河津比古の不祥の孫で、古志加をここまで手引きした男。――兄と古志加にとっては、乳兄弟である友だった。
「――手配は、もう」
「もちろんさ。叙翔が、軍勢を率いて屋形を包囲した。じじいは生け捕りにするよう命じてある。この宮を守護していたのも、こちらの手勢だ」
あの、堅物の河津比古の元で猶子として育ったとは、とても思えない豪快さで、貞鶴はここまで事を進めてきた。もっとも、彼は、祖父に抑圧されてきた反動で、できるかぎり大きな事件を起こしてみたいと意気込んでいるだけなのかもしれなかったが。
貞鶴は、早くに亡くなった河津比古のたった一人の男子、根津比古と異人の娘の間に生まれた子である。大陸風を好まないながら、主従を重んじて父によく使えた河津比古だったが、跡取りとはいえ、貞鶴に対する態度は頑なそのものだった。
「分かっている。だから、河津比古の処遇はおまえに任せる。兄の、ことも……」
「どうでもいいが、本当にいいんだな?」
大きな図体をまげて、彼は古志加の顔をのぞき込んだ。
「おれがただの鈍感愚物だと思うなよ。おまえが何のために忍び込んだのかも知っている。確信していたわけではなかったが、おまえが今、兄君の装束を纏って出てきたから、認めざるを得なかった」
古志加は、余った袖の下で、拳を握りしめた。――兄の床に残してきた、裳の色目を思い浮かべながら。真紅の、美しい布の広がりを。
貞鶴は、なおも言いつのった。
「おれたちは、頭でっかちの爺たちに打ってかかれるのに、ただ浮かれてるんじゃない。理想ってもんを持っているんだ」
「だからって何よ」
たじろぎながらも、古志加はつんとあごを上げる。それを見て、貞鶴はやや声を荒らげた。
「王の近臣を排除するのが、一番の目的だったはずだ。今なら引き返せるって言ってるんだ。新王を……」
「いいえ」
古志加は、その言葉を遮って首を振った。
「兄を廃さなければならない、絶対に」
声が震えるのを、止めようがなかった。それでも、貞鶴は、語気から決意の固さを汲み取ってくれたらしい。諦めたように息をつくと、床下を出て空を仰いだ。
「分かった。おまえを王にしてやる……その代わり、後悔はするなよ」
「――言われるまでもない」
暁は、美しかった。あの夢のように、恐ろしくも美しかった。
「わたくしは、父の呪縛からも、兄の呪縛からも解き放たれるのだ。飛び立たねばならぬ。だから、全てを焼こうというのだ。この国が、ヤマトの手に落ちる前に」
(――父は父のまま、兄は兄のままでいられたならば)
そうすれば、何かが違ったのだろうか。
七つの頃、海に落ちた。目覚めた古志加が、それまでの一切を覚えていなかったことに、父は落胆していた。熱に耐えた小さな体は、記憶の全てを拭い去っていったのだ。そういうことを理解し始めた頃、古志加は、自分自身のことについて話してほしいと頼んだこともあったが、それでもついに、父は重く口を閉ざしたままだった。
(なぜ、海に落ちたのだろう)
瞼を閉じると、淡い光は遮られて、世界が闇に閉ざされる。考え続けても仕方のないことを、考える。
(船に乗っていたことだけ)
それだけを、覚えている。
高志国は布勢の海。ここを統べる古志加の一族は、神の血を引くという。そのことを除くと、豊葦原のどこにでもあるような豪族だ。船の技に抜きん出た海の民で、父の代より、海向こうから来た異人たちとの交流がある。その勝れた文明に野心をくすぐられた父は、豊葦原を統べるというヤマトの大王とは異なった、大陸的な支配を目指していた。
かつて父は、兄と古志加を船に乗せ、沖に出て湾を一望することがよくあったと聞く。古志加の記憶にその景色はない。それでも兄は、何度もその話をして、父は古志加を愛していると説いたのだった。
兄と古志加が生まれたのは、嵐の夜だった。湾を臨む高台の屋形にまで、波飛沫が崖を駆け上り、稲妻が闇を切り裂いた。母は、双子を産み落とした後に亡くなり、荒ぶる竜神が贄に連れて行ったのだと、長老たちは囁いたという。それは、古志加が海に落ちた時も同様だったようだ。だから、仕方がないと河津比古が父に言った。――一度竜宮へ行って戻って来た者に、以前と同じ性質を求めるのは、無理というものです、と。
海に落ちて以来、父が古志加を船に乗せてくれたことは一度もなかった。屋形を出ることも、部屋を出ることもなかったのだ。父は言った。――おまえは一度死んだ。時は取り戻せぬ。おまえは兄の「つなぎみ」なのだ。だからその生を、兄に求めるがよい、と……。
父は、生んだ親も知らぬ娘に愛想をつかしたのだ。きっと、そうだった。残った息子を愛し、彼を守るために、その妹を楯として生かしたのだ。
(それでもやはり、わたくしが再び海に呼ばれることを、恐れていたから……?)
分からない、と古志加は思う。もう、何一つ、分かる日など来ない。
(わたくしは、どこから来たのだろう)
また、分からない、と古志加は思う。その問いさえ、空々しいものに感じられた。
(わたくしが、兄だったならば……)
貞鶴の後に従って、一歩一歩、殯宮から遠ざかる。その場に勢ぞろいした兵は百近く、彼らは、初めて目にする新王に、好奇の目を向けていた。十五年の間伏せられてきた、この国の後継、「つなぎみ」という存在に。
「みな、ご苦労である」
庭の中央に差しかかった辺りで、古志加は兵たちに呼びかけた。どよめきが耳を打つ。その目は、「つなぎみ」に容赦なく注がれる。
「われは、阿彦。そなたたちの志を遂げるため、でき得る限りの力を尽くそう。ヤマトに屈しはせぬ。兄は、戦を好まぬ男だ。しかし、われはそうではない。恐怖で兄を弑すのではない。優しさだけでは無力だ。この国を、民を守るために、われはあえて武力を行使しよう」
山の方から、地を這って鬨の声が押し寄せてきた。――屋形への攻撃が開始されたのだ。
それに呼応して、貞鶴のかけ声が上がる。軍勢の雄叫びは、古志加の肌をざらざらした手つきで撫でていった。
(これが……わたくしの民、わたくしの持つ力)
「火矢をつがえよ!」
すっかり将の顔になった貞鶴の迫力は、熱気を伴った波動となって、兵たちを発奮させる。一帯の空間が、明らかに異質なものに転じていった。
「何事だ!」
宮の木の扉を内側から叩く兄の叫びも、全ては野太い男らの音声にかき消されていった。
中空を劈く鋭い閃光が、長々と尾を引いて、殯宮を目指す。後方から差す朝の陽ざしが、崖の先端に建つ宮と、その背後に広がる海原を桃色に染め上げる。火矢の明かりは、板葺きの屋根に燃え広がり、そのまま雨のように、あちらこちらに降り注いだ。まるで美しい流星のようだと、古志加は思った。
「愛していたか」
いつの間にか、貞鶴が側に立っていた。その時になって初めて、古志加は、自分が愕然としているのを知った。
「強がり言いやがって」
(――わかっている)
もう、兄はいない。その実感は、あまりにも強く深く、胸を抉った。
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