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 殯宮が炎に飲み込まれると、庭に集結していた兵たちは、ますます興奮を高めながら、屋形の軍勢への合流に動き出した。古志加は、貞鶴の臣であるという男の馬に乗り、数騎の兵に囲われて、その最後尾を行く。  兄を獲り籠めた宮が燃え落ちるところを、いつまでも見つめていることはできず、振り返ることはしなかった。今や、この国の王は古志加だった。  ヤマト――諸国を制圧しつつある大国――よりの使者は、国に大きな波紋をもたらした。父は判断を下す間もなく世を去り、そして兄は、「ヤマトが攻め寄せれば、ヤマトに屈すればよい」という少年だった。貞鶴と叙翔をはじめ、優しすぎる兄の政に不安を抱く者は少なくなく、また、問題もそればかりではなかった。父王亡き後、異人たちの介入を良しとしない河津比古たちの一派と、ヤマトの大王に肩を並べ得る、新たな国を作らんとする者たちの間では、亀裂が深まっていたのだ。  古志加とて、自分が貞鶴に担ぎ出されたのだということは、重々心得ていた。認めたくはないが、それが事実なのだった。  火のはぜる轟音が、立ち止まることの許されない古志加の運命を追い立てているかのように思えた。  突如として、前方で新たな鬨の声が上がった。  屋形から延びた緩やかな坂道が、土埃にけぶって見える。 「何事だ……!」 「――もしかすると、貞鶴殿は、見誤られたのかもしれませぬ」  手綱を引いて馬を止めながら、一亀(カズキ)という若者は苦々し気にそう言った。 「叙翔殿だ。きっと、あちらの手勢が河津比古に寝返ったのです」  彼は言い終わらないうちに、道を外れ、丘陵を彼方の茂みに向かって馬を走らせる。 「待て……おまえは将を捨て置くつもりか!」  前にのめって叫ぶと、身体がぐらりと揺れた。 「危ない!」  一亀は身をねじり、片腕で古志加を支える。 「貞鶴殿より、あなたさまをお守りするよう仰せつかっています。黙って、わたしに掴まるのです」 (貞鶴……)  古志加は振り向きざまに周囲を見渡し、そして、虚を突かれた味方の軍勢が、すでに、ずいぶんと蹴散らされていることを知った。あちらこちらを、まばらになった歩兵たちが入り乱れて走り、刀をぶつけ合っている。  一亀と古志加の他、十騎ほどが、王を守護せんと左右と後方を固めていた。たとえこれらが加わっても、敵軍勢を打破するには至らないだろう。貞鶴がどこにいるのかすら、見分けることができなかった。裏切りにあった兵たちは戸惑い、戦意をくじかれ、退散の隙さえ奪われているかのようだった。――敗北は明らかだった。 「――河津比古は、わたくしを廃し、国をかすめ取ろうというのか!」  古志加は、ぎりぎりと歯を食いしばった。 「それくらいのことを腹に秘めていても、おかしくはない人物です」  一亀は、冷静沈着な男であるようだった。それでいて、まとった気迫も薄れることなく、前方だけを目指して馬を駆り続ける。その背中は、頼もしいものだった。  ようやく屋形を抜け出て、父や兄という呪縛から解き放たれたと思っていた。それなのに、王座に就くことなく、敗走。これ以上、何も考えることができなかった。悔しさに打ちのめされ、ただ、一亀の背にしがみついているのさえ、やっとだった。  彼は、険しい声で言った。 「目をつぶっておいでなさい」  しばらく駆け続ける間に、追いすがる怒号や馬のいななき、断末魔の音声が、絶え間なく耳を打った。両腕は一亀の胴に回しているため、耳をふさぐことはできなかった。 「兄者、どこへ向かっておられるのか」  ふいに後方から、少年の声が追いかけて来た。古志加ははっと目を見開き、詰めていた息を吐いた。ともかく、難を逃れたと言っていいようだと分かったのだ。胸の辺りが、締め付けられるように苦しかった。  辺りは鬱蒼と茂った木々に閉ざされている。日は既に上ったはずだが、鈍重な雲がたれこめ、姿を現さない。どこをどれだけ走ったのか、古志加には見当もつかなかった。気づけば、一行はたった二騎となっており、それだけが、戦の壮絶さを物語っていた。 少年は、疲れ果てた表情で馬に揺られていた。 「油断はできない。が、おまえがここまでついてくるとは思わなんだ」  一亀は、無造作に言う。 「生きてさえいれば、阿彦殿はこれからを考えることができよう」  しばらく馬を走らせてから、彼らは小さな沢に下って行った。山中に分け入ってから平地の敵を振り切った後は、だれに見とがめられることもなかったのだ。叙翔一派がいつから河津比古と手を結んでいたのかを知ることはできないが、優柔不断な叙翔の性格が、結果的には古志加たちの命を救ったのだった。 「やつは、最初から日和見を決め込むつもりだったのでしょう。屋形を包囲する軍勢は、殯宮の倍はありました。通常ならば、あらかじめ山側に手勢を配し、一網打尽にするところでしょう」  焚火に木切れを投げ込みながら、一亀は淡々と語っていた。 (話し好きなのか、そうでないのか分からない男だ)  竹筒に注いだ清水は、月明かりを受けて鏡のように掌に収まり、憔悴した少女の顔を映していた。改めて自分のいでたちを見ると、朝日のもとでは眩いばかりに輝いていた兄の白衣も、裾の方からだんだんに黒ずんでいて、腰の辺りには赤茶色の斑点が染みついていた。  かすかにめまいを覚え、古志加は、抱え込んだ膝に額を押し当てる。泣くともなく、ただ、目をつぶって、何か激情のようなものが過ぎ去るのを待った。 (我が国は、にっくき臣下の手に落ちた……) 「阿彦さま、気分でもお悪いのですか?」  砂利を踏む音が近づいて、小柄な影がしゃがみ込むのが分かった。 「いいや」  伏せていた顔を上げて、少年を見やる。彼は、安堵したように微笑むと、そのまま胡坐をかいた。  背丈も年も、古志加とそれほど変わらないように見える。彼はすでに鎧を脱いでくつろいでおり、一行の中で最も緊張感を持っていなかった。古志加は、その様子に少しばかり呆れる心地がした。 「おまえ、名は」 「白兎(ハクト)」  急に息を吹き返したように、少年は答える。 「一亀の一族か」 「従兄弟です。この前までは、貞鶴殿の牧で牧童をやっていて。馬術をかわれて、それで兵として召し上げていただいたんです」  水を得た魚のようだ、と古志加は思った。口を開けば、彼は落ち延びる途中だという惨めさも忘れたかのように、生き生きと語った。そうすれば気が紛れると考えているのかどうかは分からないが、根っからの陽性の持ち主なのだろうということは見て取れた。 「われは一亀の馬に同乗していたが、おまえはあの混乱の中を、よく駆け抜けたと思うぞ」  労うつもりで、古志加は誉め言葉を口にした。白兎はあからさまに嬉しそうな表情を浮かべ、ついでに声を立てて笑った。  そこに火明かりが揺れて、木々の影が覆いかぶさるように落ちた。その紛れに、いつの間にか背後に立っていた一亀が、少年の頭を軽く小突く。 「いてっ」 「全くもって、お気楽なやつだな、おまえは」 「『どうにもならないものは、笑っておしまい』ってかかあに聞かされて育ったから」  白兎はあっけらかんと言ったが、その一言は突如、古志加の中の何かをぷつりと断ち切った。  古志加は勢いのままに立ち上がり、足場の悪さに少々ふらついたものの、踵を返して馬の方へ向かった。 「阿彦殿」  驚きを含んだ一亀の声が追いかけて来た。 「一体、どこへ行かれるのです。第一、馬にお乗りになれますか」 「止めるな。われは国に戻ろうというのだ」 「何を、馬鹿な」  つかつかと歩んでくると、一亀は素早い身のこなしで、古志加の行く手をふさいだ。 「お一人で戻られるとでも」 「ああ」  非常に投げやりな気分だった。 「――同志などどこにもおらぬ。国がヤマトの手に落ちようが、謀反人の手に落ちようがかまわないのだ。笑い飛ばすとは、そういうことだぞ、白兎」  憤りは、同時に襲いかかってきた虚無感の中に埋没し、古志加は小声で罵った。 「え……おれは、ただ……」 「おまえは、兄と同じだ」  古志加は拳を握りしめ、押し殺した声を絞り出した。 「通せ」 「国に戻られたとして、どうするおつもりで」  一亀は力ずくで止めようとするのではなく、落ち着いた声で、低く問いかけた。  古志加は冷水をかけられたように、我を取り戻した。力んで震える拳をわずかにほどき、荒くなった呼吸を無理やり整えようと、ぎゅっと目を閉じた。 「われは踊らされたのだ……」  ぽつりと、ずっと胸に秘めていた予感を、ようやく口にした。すでに認めていた現実だが、臣下に向かって打ち明ける時が来ようとは、思ってもみなかった。何から話せばよいのか、苦しさの行き場がなく、吐き出し方が分からなかったのだ。 「われは、決して大義あって挙兵したのではなかった。おまえたちの志を利用したし、国を動かしうるわれ以外の者を排除しようとした。河津比古や、兄を……」  呆然としながらも、古志加は必死に、心中を言葉にしようとした。 「どうしても王になりたかった、ただその一点にのみ、われの野望があるのだ。われは、国が欲しい。どうあっても、こればかりは譲れない……命尽きようと、こればかりは」  ゆっくりと視線を映して、一亀、白兎を見やる。 「すまなかったとは言わない」 「そりゃあ、さあ……」  白兎は、困惑したように口を開いた。 「そんなことを言ったら、おれだって……きっと、兄者や貞鶴殿も、そうだったと思う。もっと光の当たる場所に出たくて、阿保だなと思いながら、それでも突き進まずにはおられなかったから……」  古志加は、不意を突かれて立ち尽くした。 「大義なんて、切望の前では泡も同然です」 「――切望」  膝の力が抜けて、古志加は崩れ落ちた。肩を一亀に支えられながら、わけもわからずくつくつと笑った。 (そうか……切望。王座は、わたくしの切なる願い) 「――われは、豊芦原を盗るぞ。一亀、白兎」  耳元で海風の鳴る音がした。霧深い山中で、不思議とその感覚は手に取るように確かだった。高志はいずれ、ヤマトの手に落ちる……ならば、ヤマトの大王を廃してはどうだろう。無謀な思い付きだった。しかし、これ以上失うものがないとすれば、得るだけなのだ。 (どんなに汚くったっていい。掴んでやる)  気づいてしまったからには、もう、後戻りはできなかった。この思いこそが、唯一の生きる糧なのだと。
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