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 いつの間にか眠りに就いていた少女は、柔らかな手に抱きかかえられて、目をこすった。  ――あまさま。  わけも分からず、周囲を見回す。慌ただしさの中に、何やら悲壮感の漂う空間だった。少女には、この場に満ちるものを言葉に言い表す術を持たなかったが、女たちの泣き声が、低い天井に反響して押し寄せてくるのに従って、急激に胸が騒がしくなるのを感じていた。  ――あまさま、どこへ行くの。  くり返し問いかける少女に、尼装束の女人は、憐れむような眼差しを向けた。  ――みなは、どこへ向かっているの。  一向に、尼は答えようとはしなかった。側には二人、女人が大振りの剣と小箱を捧げ持ち、瞳を伏せている。少女は、もう一度尼を見、そして、すがるように側女たちに呼びかけた。  ――それを持って、どこへ行くの。それは、わたくしたちのものではないでしょう。  言ってから、少女はようやく気が付いた。  ――では、会いに行くの。わが君に。これを届けにいくの。  ――そうでございます。屋島で降りられた帝は、先に行って待っておられますよ。  ようやく答えた尼は、安心させるように少女を揺すった。  ――かせのきみが、喜びのあまり騒ぎ立てては人に知られかねないので、内々に伏せておりましたが、みかどからは文をいただきましたよ。新天地は、美しいところだそうです。長らく息をひそめていた、古の都を見つけられたのです。  ――わたくしにあてた文もありましたか。  ――ええ、後で見せて差し上げますよ。さあ、行きましょう。  尼は、側に控える女人たちに目配せをすると、ためらいのない足取りで、揺れる船内を歩いた。波が打ち寄せる甲板に出るのは恐ろしかったが、尼がしっかり抱えていてくれるので、少女は気を張っていることができた。  ――あまさま、わが君の見つけた古の都は、どこに。  ――波の下に。なのでここより先は、船では参れません。  急激に不安を覚えた少女は、こわばった顔を精一杯動かして、尼に問うた。上手く声を出すことができないのは、吹き付ける風のせいばかりではなかった。  ――海の中にあるの。寒くはないかしら、それに、息は苦しくないかしら。  ――みかどの居わすところが、春なのですよ。きっと暖かく、かせのきみも、心安らかに過ごすことができましょう。よいですか、水に入ったらば、沈むに任せて、少しの間呼吸を我慢しておいでなさい。すぐに、お迎えが参ります。  ――お迎え……  ――竜宮のお迎えです。  ふと、記憶をくすぶるものが、脳裏に逆巻いた。波にもまれ、引きずり込まれる感覚……泳ぎ来る、五色の女人の、揺れる長い髪。それらを、すでに少女は知っていた。  ――離して。  足をばたつかせる少女を、尼は万力で押さえつけた。はっとして、つぶっていた目を見開く。  ――あまさまではない…… 『動き出したわね』 「わたくしを返せ……」  闇が、古志加の叫びを吸い込んでいった。耳元でささやく女人の声が生々しく、身にまとわりつく生肌の感覚が、夢と現の境をつないでしまったかのようだった。 眩い明かりを背に、こちらをのぞき込んでいる人物の顔がある。 「――竜宮の者か!」  五色の女人は、鳥の羽ばたきに吹き飛ばされるようにして、かき消える。 「阿彦さま、何を」  名を呼ばれて初めて、古志加は我を取り戻した。視力が戻ってくると、白兎が目を丸くしているのが分かった。一方の一亀は、寝言ともいびきともつかぬ、かすかな吐息を立てながら、耳をふさぐように寝返りを打つ。彼らの姿を闇に浮かび上がらせているのは焚火の明かりであり、五色の女人は、幻覚の描いた夢の続きだったのだと、古志加は胸をなでおろした。 「竜宮などと、阿彦さまもおとぎ話のようなことを申すものなのですね」  古志加は、あまりに混乱していた。 「夢を見ておいでで?」 「ああ……」  ふうん、と言った白兎は、伸びをしながら、再び身を横たえた。その様子をぼんやりと眺めながら、ようやく夜の寒さを思い出した。ひたひたと、足元から忍び寄る冷えた感覚は、潮の香を蘇らせた。 (あの夢には……夢の中では、わたくしに思い出があった)  地面を感じ、側に眠る者たちの吐息を聞くと、身体の震えはしだいに収まっていった。それと立ちかわって、驚異が頭をもたげてきたのだ。  七つの時から、毎夜同じ夢に身を沈めていた。海に呼ばれているのだと思っていた。竜宮の使いが――あるいは母が、わが子を懐かしんで手元に置こうとしているのだと。 『時が来るのを待っていたわ』  まだ夜明けまではずいぶんと間があり、円かな月は、煌々と空を占拠している。眠気が満ち引きをくり返し、わずかにまどろむ度に、女人の声が間近でささやいた。 『あなたは気づいたの、かせのきみ』  ――かせのきみ。 『あなたの名』  ――わたくしの、名。  夢と現が交錯したように、寒さの中で眠る自分自身の身体の感覚さえ、間遠に思われる。  女人の足の踏みしめる地面は、一切物音を立てず、気配すら、その息遣いによって静寂に作り変えられていくかのようだった。彼女が胸から下げた、ひしゃげた小さな玉は、澄んだ緑色に輝きながらも、染めのない衣に反射して、様々に色を変える。古志加が女人を五色だと思ったのは、その明るさのせいだった。  ――母上なの。 『あたくしに子はいないわ』  すっぱりと言い切った彼女は、額に垂れた髪の房を、ふわりと払いのけた。 『あなたが、あたくしをよく見知っていると思うのは、毎夜会っていたから』  ――竜宮から来たのか。 『あたくしも考えていたわ。あなたはいつも竜宮と言うけれど。もしかして、それはあなたの作り出した夢か何かかしら』  何を思い出と呼べばよいのだろうと、古志加は考えた。母と同じく竜神に召されたという過去か、それとも、あの少女――「かせのきみ」が、心から慕う誰かが見つけたという、海の下の古の都のことだろうか。 『どちらでもかまわないわ』  五色の女人は、古志加の周りをゆっくりと巡りながら言った。 ――わたくしは、だれ。 『あなたは、「つなぎみ」なのよ』  ――兄の。 『そうかもしれないし、あたくしの知っている「かせのきみ」もまた「つなぎみ」だった。それに、あなたは「古志加」という「つなぎみ」だわ』  ――それは、どういう……  言い終わらぬうちに、古志加は息を飲んだ。  裳裾を翻した女人は、焚火の周りをゆらゆらと舞っていたが、いきなりこちらを振り返ると、軽やかに駆け出した。狐火のように姿を転じ、懐をめがけ、吸い寄せられるように飛ぶ。古志加は地に繋ぎ止められたかのように身動きできず、まばたきすらも忘れていた。  火の玉となった女人は、胸元で五色に燃え上がったかと思うと、古志加に溶け合うようにして消え去った。 (――あれは、何だ)  眠っていたのか、それとも意識を失っていたのか……汗でしとどになった額に、夜風が冷たかった。つい今しがた、海から引き揚げられたかのような気がする。それは、夢と現が地続きになったような、不思議な感覚だった。
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