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 朝、一亀や白兎は何事もなかったかのように古志加に接し、「国を盗る」と啖呵を切ったことや、夢を見てうなされた話を一切持ち出すことはなかった。古志加はそれをありがたいと思いもし、また、肩身が狭いとも感じた。 「山越えして南に抜け、科野あたりで軍兵をつのろうと考えているのだが。おまえはどう思う」  古志加は、川べりにしゃがみ込んで顔を洗う、一亀の背に声をかけた。 「申し訳ございません、今、何と」  顔を上げた一亀は、悪びれる様子もなくそう言う。 (この者の主は、やはりまだ貞鶴なのだ……)  古志加は、ほぞをかんだ。幼い頃から、貞鶴の生まれながらの将の資質には、こっそり舌を巻いていたものだった。彼が人々に振りまくのは、みなぎる自信と晴れやかさ。時折鼻につく高慢さも、人の上に立つ者には不可欠にさえ思えた。 「――もう一度聞く。おまえはどう思う」  肩で風を切ろうとしても、上手くいくものではなかった。貞鶴の真似をしている自分を滑稽だと思いながらも、古志加は、決して態度を崩さなかった。  一亀は、上着の裾で手をぬぐいながら立ち上がると、何か思案するように、古志加を見下ろした。 「昨日は混乱していらっしゃったのだと、思っておりましたが」 「なに……」  あまりの言いようではないかと、古志加は憤慨した。 「――われを、何だと思っているのか!」 「屋形の奥で守り育てられた、忘れられた姫君と」  衝撃のあまり、古志加は二の句を継げずに立ち尽くした。 「わたしどもが、とっくにどう思っているのか。まさかご存じなかったとでも――白兎!」  落ち着かない様子で成り行きを見守っていた白兎は、急に名を呼ばれて、身を固くした。 「おまえとて、分かっていただろう」 「い、いいえ……」  張り詰めた空気の中で、双方を窺うように、白兎は首を縮める。 「正直に申せ」  古志加が詰め寄ると、彼はわずかに後ずさった。 「昨晩、阿彦様が、悪い夢を見てお目覚めになられた時、もしやと……海に落ちた姫は、助からなかったことにして、『つなぎみ』として隠し育てられたのではと」  怒りにうち震えながら、古志加は一亀に向き直った。 「――何を言いたいのだ」  しばらくにらみ合いが続いた後、小さくため息をついてから、一亀は口を開いた。 「それゆえあなた様は、外の世界を知らぬのです。だからあのような妄言を」 「関係ない。おまえに、わたくしのことが分かってたまるか」  古志加はいきり立ち、考えるより先に、言葉をぶつけていた。  一亀は、瞳に何とも言えない色を浮かべて古志加を見た。 「阿彦様は、国を盗ることでしか、ご自身をお救いになれぬと、そうお考えだ。そうとしかできぬと、そうお考えだ。あなた様がそのようなら、『つなぎみ』となった姫は、いつまでも閉じられた扉の奥で、目と耳をふさいでおいでだ」 「どうせよと……」  思い出も、姫としての道も奪われて、王にもなれず。ようやく手に入れた一世一大の賭けの機会にも敗れ、身一つでどうしろというのだ――古志加は、胸の中で逆巻く思いを持て余していた。それを知ってか知らずか、一亀は強く言い放った。 「あなたさまは何者であらせられますか」 「え……」  思いがけない指摘に、古志加は目を見開いた。しかし、その言葉は、記憶の奥底をざらざらとした手つきで撫で、肩を揺すぶって夢に見た光景を思い出させた。――海に置き去りにした何かを、ようやく手にすくい上げたような、そのような気がした。 『――かせ』  耳元で、あの女人の声が響いた。 『かせ、あなたは、かせのきみ……かせ、かせのきみ』 「――かせ」 『かせ』  声に出すと、それはあまりに確かなものだった。女はせせら笑った。 「わたくしが何者か、などと……だからといって、どうというのです。国を手に入れるのに何の足しにもならず、王たり得ぬ者だと証明するようなもの」  困惑した古志加は、一亀と白兎を交互に見やると、弱々しく笑った。 「いいえ」  一亀は、きっぱりと首を振る。 「かせ、かせ姫。あなた様は、男子にならずともよいのです。国が欲しいと言ったのは、かせ姫であって阿彦殿ではない。姫の願いです。――それをお認めになるならば、兵を募るよりもっとよい方法を、わたしは姫にお教えすることができます」  彼の言わんとすることは、いったいどこにあるのだろうか。古志加は、吸い寄せられるようにその顔を見つめた。  しばらくの後、一亀は、にやりと口角を上げた。それは、初めて見る、いたずらっぽい笑いだった。 「あなたさまには、女が憑いている」
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