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 古志加は、木立がまばらになった辺りで、眼下に広がる里山を見下ろした。遠くで立ち昇るのは、村があった跡だろうか。それに気が付くと、冷たく横たわる不安が、鎌首をもたげた。それでも今、古志加の中にはかすかに予感があった。 『――ヤマトの軍勢は、近くにいる』  五色の女人の声は、どこからともなく響くのだった。耳元に海鳴りがまとわりつき、わずかな潮の香が辺りに満ちる。その一時は、自分がどこに身を置いているのかすら、おぼつかなくなる気がした。 「ヤマトの軍勢は近い」  亡国の後、辿った深山の道筋は険しく、古志加は痛む身体をかなり鞭打っていた。それでも、一亀や白兎に轡を取られた馬に始終揺られていただけといえば、そうだった。片や、交替で古志加の馬を引く二人は、休息を取るといっても、うたた寝することすらできなかっただろう。 「こりゃあ、高見の見物ですなあ」  旅の間に、白兎は古志加を姫だなどとは考えなくなっているかのようだった。馬上の少女を見上げて、彼はけたけたと笑った。 「どうだ」  後から追ってきた一亀は、竹筒を差し出しながら言う。 「姫も、どうぞ」  冷えた水は、のどを伝い落ちて、身体のすみずみまでを潤してくれた。 「兄者、戦はまだ近いと見えます」  興奮を秘めた口調で、白兎は言った。 「そうか」  一亀は、濡れた口元をぬぐいながら受け合った。  斜面を下った先は薄の原となっており、切り開けた空は、暗く陰っている。吹き付ける風は、肌に当たると少し冷たい。秋が迫っていた。 「上手くヤマトの手勢と行き会えたとして、やすやすと受け入れてもらえるとも思えないのだけれど」  古志加のつぶやきを耳にすると、一亀はあきれかえったようにこちらを見た。 「簡単にいくわけのないことくらい、重々承知ですよ。それでも、異国の土地で軍兵を募るよりは、現実味があると思います」 「それにしても、なぜおまえはあの女人に気づいたのか」  ずっと不思議に思っていたのだが、なぜか問うことができずにいたのだ。「憑いている」と言った一亀の表現に、どきりとするところがあったからかもしれなかった。 「――姫に、だれかが重なって見えることがあるのです」  さんざんためらった様子を見せたが、一亀はとうとう言い切った。 「あの夜、わたしは突然目を覚ましました。焚火の向こうで、姫が立ち上がったのが見えたからです。一人で、黙って国へお戻りになっては大変なので、声をかけようと思いました。しかし……」  神妙な顔つきで、一亀は続けた。 「それは、姫ではなかった。姫の身体から、何者かが抜け出し、ひとりでにさまよっていたのでした……あれからは、毎夜そのようなご様子です」 「兄者、それを見て、よくも悲鳴を上げなかったですね」  白兎は感心したように言ったが、一亀は肩をすくめ、困ったように息をついた。 「――わたしは、幼い頃よりあやかしの類をよく見る質だったようで。慣れているのです。それに、害をなす存在だとすれば、姫が心を許して語り合おうはずもない」 「聞いていたのね」 「そうです」  少し口をつぐんでから、一亀は思案するように続けた。 「よくは分からないのですが、あの女は、姫を王たらしめるのに必要な存在だと言えます。今のわれらには、何よりも必要なことです」 「どういう意味だあ?」  一亀は、間の抜けた合いの手を入れた従兄弟を、冷静に見やる。 「山越えをして軍兵を募るというのは、わたしも考えたことです。科野の人々にとっても、ヤマトは脅威に違いないでしょうし、高志に攻め入るには、まず配下にしたい土地ですから。同盟を組むのも、科野方にとっては悪い話ではない。しかし、われらには、同盟するに足る証が存在しない。姫を、古志の姫として信ずる証拠が何一つないのです」 「それで兄者は、姫の神降ろしを利用しようというのか」 「神降ろし……」  白兎の言葉に、古志加はふと考えこんだ。 (――神、ではない) 『そう。あたくしは、あなたと同じ』 (わたくしと、同じ……?) 「そうだな」  女の言葉を知ってか知らずか、一亀は一つうなずいた。 「神降ろし、とでも言っておけばよいでしょう。ヤマトは、神祀りを好むと聞きますから。大きな社を、ひっきりなしに造営しているとも。出雲の大社は、天まで届くそうですよ」 『――出雲』 (――出雲?)  女人のつぶやきは、古志加の中で疑問に変わる前にかき消えた。  風は、茂みを騒めかせながら横切り、深い霧を運んできた。 『――来る』  再び、声が響く。――そのささやきは、耳をつく喧騒を引き連れてきた。
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