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7
背後から飛び出した赤茶の犬は、毛を逆立ててうなり声を上げる。あまりに唐突で、しかも一歩踏み出せば崖を転げ落ちてしまうため、一行は、かろうじてその牙をのがれるのが精いっぱいだった。
「兄者!」
徒歩の白兎は、手綱を手放して逃げ惑う。古志加は、御者を失った馬上で、振り落とされぬように身を伏せることしかできなかった。
「姫さま!」
一亀は身を乗り出して、古志加の馬の手綱を取ろうとしたが、突如いななきを上げ立ち上がった自らの馬を御しきれず、均衡を失って地に転がった。
(――落ちる)
眼下の景色がぐんと迫り、古志加はぎゅっと目をつぶった。暗闇を必死でまさぐるうちに、手綱が手に触れる。馬の扱いなど知らぬ古志加だったが、一か八かのつもりでそれを渾身の力で引いた。
「見つけたか、赤いの」
男の声が、茂みの向こうから放たれる。犬は尻尾を敏捷に振ると、けたたましく鳴きたてた。
「何者だ」
低く言った一亀は、利き手とは逆の左手で、抜き身の剣を持ち立ち上がる。
「腕を折ったのか」
問いかけた古志加の方を見やりもせず、彼は茂みをにらみつけている。
「姫さま」
舞い戻って来た白兎は、再び手綱を取ると、身軽く鞍に飛び乗った。
「相手が分かるまでは動かない方がいい。兄者が応戦している間に、なんとか抜け道を探そう……なに、猟犬を寄こすくらいだから、大した手勢はいないはずさ」
うなずいて、古志加は息を詰めた。素直に駆け出す隙を伺う気になれたのは、白兎の言葉に一理あることを認めたからだった。
茂みから現れた男は、眼光を光らせる一亀や白兎には目もくれず、まっすぐに古志加を見上げた。
「衣世さま!」
仰天するあまり、古志加は目を見開いた。
「い…いよ」
「きさまら、よくも……!」
一転して、男は手に持った得物を狂ったように突き出す。一亀は身をねじってそれをかわし、剣の手元で攻撃を受け流す。かちりと光が交錯したかと思うと、次の瞬間には、相手の男は素手になっていた。その胸に、一亀の蹴りが入る。
「いてて!」
ぎゃんという鳴き声とともに、男は地面に伏した。彼の犬は、飼い主の巻き添えを食らって、その身体の下でもがいている。
「わ、わたくしは」
古志加は声を上げた。
「イヨ、と申す者ではない」
一瞬迷ったものの、一亀が男にとどめを刺さぬうちにと、つい口走ってしまったのだ。
「――いや、違ったか、いてててて……」
くたびれた風体の男は、その体躯に似合わず、身を縮めて痛みをしのいでいる。赤茶の犬は、彼の下から飛び出すと、その周囲を駆け回る。獲物の存在ももはや目に入らないようで、混乱ぶりが大いに見て取れた。
一気に緊張は解け、間の抜けた空間が広がったが、その犬と同じく、古志加たち一行もかなり動転していた。
「なんてこった……」
その場にあぐらをかいて、男は肩を落とした。
「それは、こちらの台詞だが」
一亀は剣を手にしたまま、にらみを利かせる。
「ご一行は、ヤマトの者ではありませぬな。渡の民か、日立の民か。いずれも、今のわれらの敵ではありますまい」
「――その血は引いているがな」
ひどく驚いた様子で、一亀は答える。
「お手前こそ。科野の民か」
「ああ、ここの者だが」
未だ、打ち据えられた身体の痛みをこらえているのか、かすれた声で、男は言った。
「ヤマトの手勢は、われらの姫を攫って行きおったのだ。家々は焼かれて、ただの里人に戦う術もなくてなあ」
情けなさそうに背を丸める男は、大きな息をついた。
「やつらは、姫を抱えて山に消えたのだ。馬があまりに早くて追いつけず、そうこうしている間にもう、木々に紛れていずこかに抜け出たのだろう……。よくよく考えれば、今頃、里を見下ろすこのような場所に、姫がいようはずもない」
「その姫さまってのは、なぜヤマトに連れ去られちまったんだい?」
白兎は、わずかに同情を漂わせながら、男に問いかけた。
「ヤマトは、玉の力を使う巫女を血眼で探しておるのだ……」
『――玉、ヤマトの手にある、玉、玉』
にわかに、耳元で女人の声がざわめく。古志加は、全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。
「国を侵攻するにあたって、ヤマトは再び、強大な力を持つ玉の使い手を求めて、この山里まで押し寄せてきたのだ。ここは、先代女王――日未子さまを出した里。それも、目先の戦を避けるために。その姪子にあたるお方が、衣世さまだ」
ヤマトを治めるのは、不思議な石を操る女人なのだと、昔、貞鶴が語って聞かせてくれたことを、古志加は思い出していた。
「わしらの先祖は、都を追われ、身を隠した玉守の民だと伝え聞いておりますが、真偽のほどは定かではない。伝承を信じるヤマトは、この隠里を血眼で捜し当てた。その要求に応じて、泣く泣く日未子さまを送り出して初めて、伝承を現実のものとして受け止めたのだ。――それでも、日未子さまは、玉の力を発揮させることができずに逝ってしまわれた」
(――不思議な石、女人)
五色の女人と、ヤマトの女王には似通う部分があった。この共通点を、どう考えればよいのかと、古志加は思いを巡らせた。
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