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女の苦痛の表情を思い浮かべながら、それを確かめようと前に乗り出した瞬間、前方の視界の隅に何かの気配を感じた。よく見ると、スポーツウェアを着た中年の男性が目を丸くして立ち尽くしていた。ランニング途中だったのか、息を切らして肩が上下に小刻みに動いている。
女の口を塞ぎ、首にナイフを当てている。この状況を見られた以上、このおじさんには消えてもらわないと。そう考えた男は、ゆっくりと、ナイフを女性の首元から離す。
そして、背後から女を思いっきり地面に突き飛ばした。女はたまらず、グシャ、と鈍い音を立てて、体の真正面から倒れ込んだ。「うっ」と低いうめき声が一瞬聞こえたが、男は気にする様子もなく、ジリジリと中年男性に近づいていく。
男のただならぬ雰囲気を感じたのか、後退りをしながら慌てた様子でポケットからスマホを取り出そうとする。ところが、手が小刻みに震えて、操作がおぼつかない。
男は、それを嘲笑うかのようにナイフをひらひらとちらつかせ、ニヤニヤと笑みを浮かべる。
(あの女の人とはもうちょっと遊びたかったのに、邪魔しやがって)
まずは脚を切り付けて、口を切って、スマホをとりあげて、それを目の前で壊して絶望させてやろう。そう考えを巡らせていると、次の瞬間、手元からナイフが消えた。
「え?」
焦茶色の、美しい長い髪。まぎれもなく、さっきまでナイフを突きつけていた女の髪だ。それが見えたかと思えば、もうとっくに中年男と自分の間に立っている。手元には、自分のナイフ。
(なんで?どうして?どういうこと?)
まるでスローモーションを見ているかのように感じられるほど、理解が追いつかなかった。
(足音が、しなかった?)
正直言って、一切気配を感じることができなかった。
そして、女が突進していった先の中年男性の腹部あたりで、ブスッと鈍い音が聞こえた。
(は?)
中年男の驚いた目が、女の顔を見つめる。顔を歪め、うめき声を上げながら、女の胸あたりに両手を当て、ぐっと押し戻そうとする。すると、ハッと何かに気がついた様子を見せ、口をぱくぱく動かす。ところが、声が出ていない。
「余計なことするなよ。おじさん」
女は確かに、そう言った。
(余計なことって、なんだよ。おっさんはあんたを助けようとしてたんじゃないのかよ)
どさっ、と鈍い音を立てて、中年男が倒れ込む。アスファルト上に、ゆっくりと血が広がっていく。
その血の流れを目で追っていると、女が振り向いた。そして、目が合った。焼き殺される。そんな気がした。これが、殺気なのだと、男は理解した。
(あ……。もしかして)
すっかり腰を抜かし、男は地面に尻餅をつく。体が震え、涙も出てきた。
女はそれをよそ目に、民家の玄関先に放置してある子供用の金属バットを拾い上げる。そして、それを男の頭上で高く振りかざす。
「おれ、ずっとあなたのファンでした!」
男は最後に、そう言った。が、女は構わず、思いっきりバットを振り下ろす。バットが頭部に到達する直前に、気を失った。
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