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(十)祐天寺駅前5
ここは横浜、雪川彩子の自宅である。午前中バルタン協会のクリスマスの礼拝に参加した彩子は、世話になった幹部やリーダー、自分が世話した信者たちに、別れとブライダル布教出発の挨拶を済ませると、アフリカ出発準備と最後の親孝行の為、早々に帰宅したのである。
午後九時。両親との夕食や風呂も済ませ、今は自室でひとりのんびりとくつろぐ彩子。疲労のせいか、睡魔が襲う。何気なくTVのスイッチを入れると、報道番組が流れている。
「今夜午後七時、東京都渋谷区渋谷に在ります宗教法人ブースカ仏会本部の施設に於いて爆発事故が起こりました。その際有毒ガスが散布された模様ですが、現在の所大きな被害は出ておりません。警視庁は事件の可能性があると見て、現在捜査を行っているとのことです」
ブースカ仏会ですって。眠気も吹っ飛び、彩子はTVに釘付け。
「この事故により同会の信者である三上哲雄さん二十七歳が、爆発と有毒ガスの被害に遭い、現在意識不明の重体です」
ええっ、意識不明の重体、哲雄さんが。嘘、嘘でしょう、そんな。うろたえる彩子、けれどTVの画面には確かに『三上哲雄』の四文字。間違いない。どきどき、どきどき……、彩子の鼓動が高鳴る。哲雄さん、どうしてあなたが……。その時彩子の脳裏に、ひとつの歌が甦る。その歌とは、大貫妙子の『風の道』。それは忽ち大音響となって、彩子の胸を激しく揺り動かす。
彩子の中で何かが崩れ落ちる。気付いたら、TVに向かって叫ぶ彩子。
「哲雄さん、死なないで。哲雄さーーん」
彩子は家を飛び出し、駅へと向かう。横浜から渋谷へ、そして哲雄の許へゆく為に。
哲雄が運ばれた救急病院は、日赤渋谷総合医療センター。場所は祐天寺駅そばに在り、病室の窓から祐天寺駅が見える。しかし哲雄はまだ意識不明のままベッドに横たわり、絶対安静。ブースカ仏会の信者が数名、交替で見守っている。医師の診断によると、時限爆弾による傷は軽症であったものの、謎の有毒ガスを吸引したことにより、現在呼吸困難に陥っているとのことである。
意識不明の哲雄、その脳裏に去来するのは彩子の面影。面影は哲雄へと語り掛ける。
「わたしたちは、人類救済の同志でしょ。だから、がんばって」
同志……。
その時ベッドに横たわる哲雄の手をじっと握り締める人影、それは彩子である。彩子は横浜の自宅から東横線で渋谷へ出て、躊躇うことなくブースカ仏会本部を訪ね、哲雄の居場所を教えてもらうや、まっ直ぐここへ駆け付けたのである。どきどき、どきどき……、哲雄は彩子の鼓動を感じ、自らの鼓動を高鳴らせる。無意識のうちに哲雄は、彩子の手のぬくもりに身を委ねる。意識の向こうに、確かに彩子の気配を感じながら。
どきどき、どきどき……、彩子もまた哲雄の鼓動を感じながら、哲雄へと語り掛ける。
「哲雄さん、死なないで」
この時彩子は既に、決意している。この人を救いたい。哲雄さんと共に歩きたい、わたしたちの、風の道……。その心にもう迷いはない。神様、今わたくしはあなたを裏切ろうとしています。あなたの愛を踏み躙り、あなたと交わした約束のブライダル布教、その使命を捨て去ろうとしているのです。なぜならわたくしは、今目の前で苦しむわたくしの大切な人を見捨てて行くことが出来ません。この罪によって、もしわたくしが永久に裏切り者の烙印を押され、最後の審判によって裁かれ滅び去ろうとも、たとえわたくしの魂が永遠の無或いは灰と化し、地獄の底に突き落とされ永久の闇に閉じ込められようとも、神様、わたくしは一向に構いません……。そのまま彩子は、哲雄の枕元でクリスマスの夜を明かす。
翌日十二月二十六日、彩子は一旦まだ意識の戻らない哲雄から離れ、両親に付き添われながらバルタン協会へと向かう。目的は、ブライダル布教の辞退を申し出る為である。当然ながらバルタン協会の反応は厳しく「今更無理です」の一点張りで、双方の意見は平行線を辿るばかり。ひたすら謝り何とか勘弁してくれと懇願する雪川一家に、応対したバルタン協会の黒岩教師は遂に大激怒。それはもうヤクザ顔負けの形相と怒号で、「お前ら、地獄に堕ちるぞ」とか「手前ら、これで済むと思うな。その内痛い目に遭わしてやっからな」などと本性を剥き出し。その品性も信仰の欠片もない下劣さ野蛮さに、とうとう彩子も呆れ返って、ここにバルタン協会への信仰心を完全に喪失するに至るのである。バルタン協会を信じて活動し歩んで来たこの五年間は一体何だったのだろう。虚脱感と後悔に苛まれながら、バルタン協会を後にする彩子である。
その頃ブースカ仏会の爆発事故について事件の可能性を調べていた警視庁は、ゼットンフォーラムがこの件に関与していたことを突き止める。しかし同時に及び腰にもなるのである。なぜなら大物の警察OBが、天下りでゼットンフォーラムの顧問に就任していたからである。そこで警視庁は顧問であるその人物に相談し、ゼットンフォーラムによるブースカ仏会への嫌がらせを今後一切行わないことを条件に、今回の件は有耶無耶のまま捜査を打ち切ることとするのである。従ってアーサー、チャーリー、マリリンの三人は逮捕されずに済む。
しかし黙っていないのはマスコミ。今回の事件というか事故を大きく取り上げ、新興宗教団体が如何に危険な存在であるのかをアピールしようと、ブースカ仏会を槍玉に挙げバッシングキャンペーンを展開するのである。もしあの有毒ガスが渋谷駅などの群衆の中に撒かれていたら、一体どれ程の大惨事となっていたであろう。そもそもあの有毒ガスは、元々ブースカ仏会が密かに開発していたのではあるまいか等々……。お陰でブースカ仏会本部前には、連日連夜野次馬が押し寄せ大騒動。ブースカ仏会なんざさっさと最後の審判で滅びちまえーーっなどと、罵詈雑言を浴びせられる始末である。
すっかり打ちのめされたブースカ仏会は施設の警備を強化すると共に、それまで細々と行っていた戸別訪問をも止めてしまう。これにて宗教団体としてはまこと痛恨の極みであるが、不特定多数の一般市民への布教活動を一切停止し、以後信者の家族、親戚、友人知人に限定して布教するという方向転換を余儀なくされるのである。この為人類救済に情熱を捧げ布教活動を自らのライフワークとしていたブースカ仏会の青年信者たちは、人生の目的を奪われ生き甲斐を喪失し、虚脱と無力感の中に日々流されてゆくのである。
バルタン協会は彩子について、一旦は拉致してでも強引にアフリカへ連れて行こうと考えたが、結局彩子からは手を引く。なぜなら折りからの新興宗教バッシングキャンペーンによって現在マスコミと世間の目がバルタン協会に対しても厳しく向けられており、ここは下手に騒ぎを起こさない方が賢明と判断したからである。
バルタン協会と決別した彩子はその足で哲雄の病室に戻り、ベッドの上のまだ意識の戻らぬ哲雄をただひたすら見守りながら、遂に大晦日を迎える。
大晦日から年が明け迎えた元旦の夜明け、彩子がうとうと居眠りしているその時、哲雄は昏睡の中でひとつの教えを思い出す。それがブースカ仏会のものであったか、それとも学生時代に読み漁った宗教書か何かに記されていたものだったかは定かでない。ただ哲雄が常日頃から抱いていた、なぜ神は悪を許すのか、その疑問に答えてくれるものであったのは間違いない。その教えとは、こうである。
『そもそもこの宇宙に於ける神の目的が理想世界を創ることであるのは言うまでもないが、その方法として神はひとつのシナリオを描かれた。それは人類にとって最大の悲劇であり且つ最大の喜劇でもある。即ちそのシナリオとは、善と悪とを闘争させながら理想世界を築き上げていかんとするものである。なぜそうしたかと問えば、何しろ善は柔和にして競争を好まない。しかしそれでは人類に進歩は望めないのである。そこで悪の持つ欲望、野心、闘争心を利用し、善と悪とを競わせ闘わせることによって、人類を進歩させ理想世界を建設させようと仕向けられた訳である。と同時に闘争がもたらす悲劇によって、善が憐憫と忍耐と愛とを学ぶ機会をも与えられた。しかし神は、永久に悪の存在を許してはおかない。悪を利用しやがて進歩した物質文明が理想世界へと到達したその時、神は最早不要となった悪を消去即ち最後の審判によって裁きを下し永久に滅ぼされるのである。このことからも分かるように、神は善である、とする定義は人類の単なる幻想に過ぎず、神とは同時に悪でもあるのである。神は善と悪との両面を持たれ、表の顔が善即ち天使であり、裏の顔が悪即ち悪魔なのである。従って神は悪魔であると言っても、まんざら間違いではないのである……』
教えの終わる時、哲雄へと朝陽が射し込んで、哲雄はふっと意識を取り戻し目を覚ます。その時そこには彩子。彩子もまた目を覚まし、ふたりはしばし見詰め合う。沈黙の後、哲雄が口を開く。
「今は、いつですか」
答えて彩子が微笑む。
「一月一日、元旦の朝です」
「元旦、でもきみは、アフリカへ」
かぶりを振る彩子。
「もう行きません。だってわたしたち、同志だと言ったでしょ」
立ち上がり彩子は、病室の窓辺に立つ。朝の祐天寺駅が見える、まだ殆ど人影のない。目にしみる空の青さが広がり、何処からか小鳥たちの歌声も聴こえ来る。今、そう、たとえほんの一瞬だけのことだとしても、今確かにここは天国であると思う彩子である。
あなたと出会ったのは、祐天寺。駅前のレコードショップからはいつも、大貫妙子の『風の道』が流れていた。世界の終わりが来る前に、あなたを救いたかった。どうしても救いたかった、あなたを……。一九八二年九月、わたしたちが出会ったのは、祐天寺駅前。
(了)
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