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(一・一)祐天寺駅前1
あなたと出会ったのは、祐天寺。一九八二年九月、駅前のレコードショップでは大貫妙子のニューアルバム、クリシェが繰り返し掛かっていた。五曲目のスローバラード『風の道』は今でも痛みのように胸に甦り、あの頃へと心を駆り立てる。今はもう過ぎ去った、あの九月へと。
(一・一)祐天寺駅前1
雪川彩子(ゆきかわ あやこ)二十五歳は、その時代日本に於ける所謂新興宗教ブームの中にあってその一角を成す、キリスト教系の巨大教団バルタン協会に所属する若き一般女性信者である。出家か在家かと問えば在家であり、かつ幹部でもなく専従者でもないから、一般信者であるのは間違いない。がしかし教団の活動に熱心であり、実質教団の布教活動に専念している。
その為自宅は横浜でありながら、首都圏では最大規模を誇る渋谷の教団施設に寝泊り、詰まり合宿しており、自宅へは殆ど帰らない。ひとり娘である故両親としては心配でならないが、最早時既に遅し。彩子が家族の反対を押し切ってバルタン協会に入信した当初、直ぐに飽きるだろうと高を括ったのが致命傷、今ではもうどんな説得、泣き落としも通用しない強固なるバルタン協会信者と化しているのである。
そんな彩子の布教の場即ち彩子がその青春のすべてを捧げたと言っても過言ではない空間が、JR渋谷駅前並びに代官山から自由が丘までの東横線の各駅前である。他の新興宗教団体に於いても、首都圏での布教活動の中心は矢張り街頭布教であり、特に渋谷、新宿、池袋など不特定多数の人が一日中激しく行き交うターミナル駅でのそれは活発である。
渋谷駅周辺に拠点を置く教団は数多く有り、バルタン協会を始め、有名な所では仏教系であるブースカ仏会、まだ歴史の浅いゼットンフォーラムなどがある。それらの信者が布教活動せんが為、JR渋谷駅前へと押し寄せる。理由は通行人の数が多いことは勿論だが、布教に励む信者の移動時間及び交通費が少なくて済むからでもあり、かつ脈ありの通行人をゲットした際拠点に案内し易いからでもある。折角相手が関心を持っても、拠点までの移動時間が長かったり電車の乗換えが多かったりすると、途中で白けて関心が醒めてしまうことにも成りかねない。そうなると、やっぱり止ーめた、などと途中で逃げられてしまうから、布教場所は可能な限り拠点に近い方が有利なのである。
同じ渋谷駅前で複数の宗教団体が布教を行う際、平和的に各々の布教を展開すればいいのだが、そこは人間、時に衝突したり、やくざや野良猫顔負けの縄張り争いなどといった物騒な事態に発展することもしばしば起こり得る。通行人を奪い合ったり、他所の布教を妨害したり、丸で仁義なき宗教戦争の様相を呈するものである。それが為一般の通行人からは、それ見たことか、だから宗教は嫌なのだと、敬遠されてしまう。加えて天下の渋谷駅ともなれば宗教以外にも、スカウト、キャッチセールスの類も多いから、布教するといっても一筋縄ではいかないのが現実である。
どちらかといえば控え目な性格の彩子としては、そんな殺伐とした渋谷駅に於いても懸命に布教活動を行いはするが、正直な所苦手。むしろ人の数は少ないが小規模で静かな場所を好み、中でも東横線の祐天寺駅前が一番のお気に入りである。
祐天寺駅は、東横線の渋谷駅から、代官山駅、中目黒駅を経た三番目の駅である。駅前は静かで落ち着いており、電車の発着時刻に合わせた人の行き来以外は殆どない。だからいつ人波が押し寄せるか見当が付き、従って布教もやり易い。人通りも穏やかであるから、声も掛け易いし、説明もゆっくり丁寧に出来る。しつこいクレーマーもいなければ、布教を妨害する悪意ある輩もいない。気のせいか断られる時も心なし丁寧な印象である。今迄の所、他宗教の布教活動も見られなかったし、キャッチセールスもいない、まさに渋谷駅とは天と地の差なのである。祐天寺駅の前には、公園があり、商店街があり、スーパー、バーガーショップ、書店、レコードショップなどが軒を連ねる。レコードショップで掛かる音楽が柔らかな風に運ばれ耳に届くと、厳しい布教活動の中にあっても心和む一時を与えてくれるものである。
首都圏での街頭布教といっても朝から晩まで通行人に声を掛け続ける訳ではなく、勿論休憩も取る。仙人などでは決してなく生身の人間なのであるから、疲れもするし、食事、トイレだって必要。心ない暴言を吐かれたり、追い掛けられたり、逆に完全しかとなどされれば、信仰の修行とは分かっていても、時に心も折れる。そんな時は人並みに公園やバーガーショップで一休み。
休憩時は単独で休むこともあれば、布教仲間と連れ立って休むこともある。そんな時も、他宗教のことは知らないが、バルタン協会の信者に限って交わす話は宗教談義であり、世間話などは一切しない。みんな信仰と布教に対して真摯でありまた一途なのである。
布教仲間といえば、渋谷駅のようなマンモス駅では数十人の信者が集結し、それが複数のチームに分かれ、勿論各チームにはリーダーがいて、各改札口前で布教を展開する。布教経験が長くどちらかというと既にベテランの域に達する彩子などは、女であってもリーダー役を任されることも多い。
祐天寺駅のような小さな駅では、それなりの少人数で布教を行い、多くても五、六人程度、少ない時は二人でということもある。布教力のある者は渋谷駅のような派手な場所に行きたがるもので、近頃祐天寺駅での布教リーダーは専ら彩子が仰せつかっている。それでもバルタン協会では基本単独での布教活動は禁じており、どんなに小規模な場所でも二人以上で行うようにと指導されている。特に女ひとりでの布教などは危険であるから厳禁である。尤もどんなことにも時として例外は発生する。例えば、彩子と誰かが二人で布教をしていた際、パートナーの布教者が興味を持った通行人を教団施設に案内してしまい、彩子だけが布教場所に取り残されるといった場合である。このようなケースでは彩子のようなリーダー格に限って、自らの責任で単独にて布教を継続することも有り得るのである。
さて布教場所としては比較的穏やかなる祐天寺駅前、彩子のお気に入りの布教場所に、いつの頃からか別の宗教団体が布教伝道の為ちょくちょく姿を見せるようになった、ブースカ仏会である。
バルタン協会は、アジア系外国人である教祖『聖バルタン』が聖書に大胆な解釈を行うことで世間の注目を集め発展して来た、世界規模の宗教団体であり、既に半世紀の歴史を持つ。対してブースカ仏会は、日本人の教祖『ブースカ富永』によって日本国内で起こされた、まだ海外に一拠点も有しない小規模かつ歴史の浅い仏教系の団体である。が、近年青年信者の献身的布教活動によってその発展目覚ましく、徐々に勢力を伸ばしつつあった。
広くもなく改札口も一箇所のみ、そんな祐天寺駅前でふたつの宗教団体が布教を行うとなれば、何かと軋轢も生じそうであるが、両教団とも他宗教に対して寛容であり、平和的な団体である。それ故顔を合わせれば「宜しくお願いします」、「こちらこそ」などと穏やかに挨拶を交し合うから、今の所波風も立たず円満な関係を維持しつつそれぞれの布教を進めている。例えば、どちらかが先に来て駅前で活動していると見るや、一方は遠慮して駅周辺の歩道辺りで通行人に声を掛けるといった具合。
そして九月下旬、ブースカ仏会の信者であるひとりの男が布教の為、祐天寺駅前ということは彩子の前に現れる。三上哲雄(みかみ てつお)二十七歳である。初めて彩子が哲雄を目にしたその時、丸で運命の出会いを暗示するように、駅前には大貫妙子の『風の道』がいつものレコードショップから流れていた。歌の調べは九月の風のように、やさしくけれど感傷的に彩子の頬を撫でていった。
三上哲雄はいつも仕事帰り、渋谷駅近くにあるブースカ仏会の本部施設に参拝している。それから時折り誘われるまま布教活動にも参加しているが、彩子のように専念しているという訳ではない。ごく普通のサラリーマンであり、平日の参拝帰りか休日に時間を見付けては布教を行い、時間になったらさっさと帰宅するという日々を送る、所謂在家信者である。
哲雄を見た瞬間、彩子の中に幾ばくかの動揺が走る。なぜなら咄嗟に、兄に似ていると感じたからである。彩子の兄、雪川家の長男である保夫は、彩子よりふたつ年上と言いたい所だが、彩子より二年早く生まれ、彩子が十八歳高三の時他界している。死因は自殺である、本人二十歳、大学生の時のこと。
それ故彩子は、異教の徒であるにも関わらず、哲雄に親近感を覚えずにいられない。しかしながら異教徒である故、安易に話し掛ける訳にもいかないジレンマに陥る。バルタン協会に入信して既に五年近くが過ぎ今や布教活動に専念する身であるし、布教リーダーが布教に身が入らないのでは一緒に活動する同志だって心許ないに決まっている。しかもその原因が異教徒であるブースカ仏会の男であるなど勿論論外である。せいぜい軽く会釈する程度に、とどめるしかない。
けれど頭ではそう分かっていても、どうしても哲雄のことが気になってならない彩子。布教の最中でありながら、気付いたら哲雄に目を向けている、そんな自分に気付いてはっとする。こんなことではいけないと戒めるも、駅前の雑踏の中でせっせとブースカ仏会の布教に励む哲雄の姿を見ると、ついつい目を止めずにいられない。しかも切なさすら込み上げて来るから困ったもの。切なさ……哲雄の姿に保夫の面影を重ね合わせ、ああ、もし兄保夫が生きていたなら、そしてわたしの手でバルタン協会へと導き、ふたりして布教など出来たら、どれ程わたしは幸福だろう。そんなことを思い描いてしまう彩子である。
渋谷駅前等で布教している最中も、矢張り哲雄のことが気になってそわそわ。天下の渋谷駅前であるからブースカ仏会の信者も集団で布教を行っているが、今の所その中に哲雄の姿を見掛けることはない。自然彩子の心は、哲雄がいるであろうかも知れない祐天寺駅前へと飛翔する。
祐天寺駅前で布教していてもやっぱり落ち着かない。なぜなら哲雄は、平日の夜と土日にしか姿を現さないからである。このことから他教団であっても、哲雄が在家の信者であることは容易に想像が付く。平日の昼間など哲雄と会えない時間の、何と長くまた切ないことか。日一日と胸が詰まり、これでは丸で片思いの男性を慕う乙女のようではないかと、冗談のように自省する彩子である。
しかしそれでも哲雄を恋焦がれるなど絶対に有り得ないと、揺るぎない自信を持って誓える彩子でもある。なぜなら彩子には既にフィアンセが存在するからである。フィアンセ、この地球の遥か遠い大陸の果てにその人はいて、わたしが嫁ぐ日を今か今かと待ち侘びていてくれるのだから、と。
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