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(七・二)祐天寺駅前4
日は流れ、十二月十八日の夜明け前、哲雄は保夫の夢を見る。彩子が「神様への最大の裏切り」であると語った自殺に走り、死んでなお今もまだ成仏出来ず迷いと後悔の中を流離っているのか、保夫は苦悶の声で途切れ途切れにこう訴える。
「これが最後のお願いになります。どうか、彩子を助けてやって下さい」
最後……。金縛りにでもあっているようで、体が重く思うように動かせない哲雄。
「なぜわたしなんかに頼むのですか、わたしには何も出来ませんよ。わたしには何の力もない、彩子さん、彼女の気持ちを変えることなど」
元々幽霊であるからなのか、保夫の体が薄らぎ始める。
「あなたしかいないのです、縋れる人があなたしか……。でも、もう時間がないようです」
「あっ、待って下さい」
しかし保夫の体は薄らぎ、大気中へと吸い込まれ、やがて哲雄の夢からさえもその姿を消してゆく……。
目を覚ますと夜明け、寒さに震える哲雄である。けれど夢の中の保夫の言葉はしっかりと今も哲雄の耳にこびり付いて離れない。「これが最後」、「あなたしかいない」、「もう時間がない」
もう時間がない。カレンダーに目をやればクリスマスまで後一週間、最早ぼやぼやしてはいられない。
その日の夜の祐天寺駅前。今夜がラストチャンスのつもりで、自分の想いのすべてをぶつけよう、そして何とか彼女を説得しよう。密かにそう心に誓いながら、彩子の前に立つ哲雄である。
「バルタン協会では、亡くなられた霊の供養は行わないのですか」
「そのようなことは、一切行いません」
「でもそれでは、死んだ霊は救われないではありませんか」
「仏教の方ではそうかも知れませんが、そもそもバルタン協会では、霊というものの存在を認めていませんから」
「そうでしたね。ブースカ仏会なら先祖供養を行っていますから、亡くなられた霊も霊界で救われるんですけどね」
「ですから、バルタン協会では霊は勿論、先祖供養も霊界も認めていないのです」
「でも、あなたのお兄さんの霊も楽にして上げられるんですよ。ね、素晴らしいと思いませんか」
哲雄としては多少強引でも、兎に角保夫のことをアピールするしかない。
「ええ、でも」
兄の霊を楽に……。彩子とて兄保夫のことを言われたら動揺する。しかしそれでも矢張り、他宗教であるブースカ仏会を受け入れる訳にはいかない。
「わたしはわたしなりに、兄の為にバルタン協会で頑張るしかありません」
うーん、保夫さんの話題でも駄目かあ。焦る哲雄は、仕方がない、いよいよ最後の手段と、ブライダル布教への批判に言及するしかなくなる。
「もう時間がないから正直に言わせてもらいますが、ぼくにはブライダル布教について、どうしても理解出来ないことがあるんです。それはですね、どうしてあなたのような若い女性がわざわざアフリカへなど行かなければならないのかということなんです」
が、それでも強固な彩子の信仰を揺るがすには力及ばない。
「ええ、確かにそう思われるのも無理のないことかも知れません。でも、誰かが行かねばならないのです」
「しかし、いいですか。日本とは生活も文化もまったく異なる地域なんですよ。そんな所へ行って、本当にあなたは大丈夫なんですか」
はい、毅然として頷く彩子。
「どうなるかは分かりません。わたしだって不安がないと言えば嘘になります。でも分かって下さい、すべては……。すべて神様がお決めになったことなのですから」
「でも、本当にそこまでして女性であるあなたが行くべきなのかなあ。例えば、例えばですよ。国際的な救済は男性に任せて、あなたは国内でどんどん布教をすればいいじゃないですか」
「でもブライダル布教の相手は男性ですし、女が行った方が地元に上手く溶け込めるなど幾つもの利点があり、また布教の成果も良いと聞きます」
「しかし……。では相手の男性とその家族は、あなたが布教する上に於いて特に問題はないのですか」
「ええ、信仰熱心な方ですから問題ありません。ご家族もしっかりした方々で、家も裕福とは言えないまでも平均的な家柄だそうです」
「うーん。でも、でもそもそもおかしいと思いませんか」
「何がですか」
「ですから、結婚相手を教団が決めるということと、そしてそれに素直に従うということがですよ」
「そんなに、おかしいでしょうか」
「おかしいですよ。おっとすいません、つい興奮しちゃって。でも、おかしくありませんか、あなたはそう感じないのですか。ぼくにはちょっと信じ難い、もっと言わせてもらえば……、異常だと思う」
異常。きゅっと唇を噛み締める彩子。
「それはとても残念でなりません。あなたには理解して頂けるものと信じていたのですが。あなたはたとえ所属する団体は違っても、人類救済の同志、仲間だとずっと今日まで思っていましたから」
泣きそうな顔で俯く彩子。そこまで言われては、哲雄としても彩子に対して申し訳なさが込み上げて来る。しかし今は心を鬼にして、彼女を救わなければならないのだ。
「ですから自分が言いたいのはそんなことではなくて、そもそも結婚相手とは、自分で決めるものではありませんか」
「その通りです」
顔を上げ、答える彩子。
「でもあなたは、バルタン協会の決めた相手と……」
「いいえ、バルタン協会ではなく、神様です。神様が決めて下さった相手なのです。そしてわたしは、身も心もすべて神様にお捧げした人間なのです。ですからわたしの心はイコール神様の御心になるのです」
「そんな」
だから、神様が決めたことは即ち自分が決めたも同然。そんな屁理屈があるものか。絶句する哲雄。
「ご理解頂けるか分かりませんが、わたしからはそうとしか言い様がありません」
まずい、こんなことでは彼女を説得することなど、自分にはとても出来そうにない。絶望、の二文字が哲雄の心を覆う。
「では、愛とは何ですか」
「愛、ですか」
「そうです、愛です。この世の中で見知らぬ男女が巡り会い、そして恋に落ち結婚し、新しい命が宿り生まれ、そうやってこの世界は続いてゆく。言わばこの世界の営みを陰で支えている男女の愛とは。見知らぬ者同士の中に或る日宿り、互いに引かれ合い、求め合い、やがて離れてはとても生きてゆけない掛け替えのない存在となる、そのすべての始まりである愛。そのいとしさ、切なさ、ときめき、喜び、哀愁……。それらこそが、神様がぼくたち人間に授けて下さった神様の存在の証し、神様の愛そのものなのではないかと、思いませんか」
「ええ、でも」
「なのにあなたは、まだ一度も会ったことすらない相手の男性を、なのにきみは愛していると言う。嘘だ、そんなことは絶対に信じない。なぜなら」
「なぜなら」
「きみを愛しているのは」
見詰め合うふたり。今この時、哲雄のそして彩子の耳には、駅前のレコードショップから流れ来る大貫妙子の『風の道』が聴こえている。
「……ぼくだから」
「えっ」
そして静かに歌が終わる。
「好きなんだよ、きみのことが。初めて会った日から、ずっと好きだった」
あーあ、とうとう言っちゃった。でもいいや、後悔はない。唇を噛み締める哲雄と、沈黙のまま哲雄の顔を見詰める彩子。
「だから、行かないでほしい。たとえ最後の審判で世界が終わっても、ユートピアは訪れなくても、ぼくはただきみを救いたい」
沈黙。言葉無く、しばし見詰め合う彩子と哲雄。祐天寺駅を幾度となく東横線が行き交うばかり。
終わった。これで言いたいことはすべて言った、自分なりにやれるだけのことはやったのだ。哲雄の胸に、しばし安堵が漂う。後はもう彩子の判断に委ねるしかない。今の哲雄は、例えば最後の審判を迎え神の前にひれ伏し、ただその裁きを待つ哀れな人類の姿にも似ているのである。
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