本当にやりたい事

1/1
前へ
/18ページ
次へ

本当にやりたい事

「蒔絵、どう? 熱は下がった? 」 「うん」 「蒔絵、私はもうあなたが何をやろうと口出ししようとは思いません。ただ、本当に自分がやりたいことを見誤らないでほしいの。それだけよ。無茶だけはしないでね」 「 ..うん」 母は私の指に手を這わせながら寂しそうに言った。 私は慣れない力仕事と連日のダイビング、それと6月の梅雨寒に体調を崩してしまった。 再びベッドに横になると母の言葉がリフレインする。 『本当に自分がやりたい事』......か。 父は自分のやりたいことを貫き通した。 私にもそんな強い心があれば.. 「お父さん.... 」 .... 私は小さい時から一度も父の故郷・荻島(おきしま)へ連れて行ってもらうことはなかった。 その理由をはっきりと教えてもらうことはなかったけど、小学生の高学年にもなると、そこには深い事情があるのだろうことは察しがついた。 私が『父の素晴らしさを証明したい』と思い始めたのもちょうどそのころだった。 そうすればきっと父は荻島に堂々と帰ることが出来ると思っていた。 父が荻島へ帰れない本当の理由を知ったのは、父の葬儀の後だった。 「お前がそそのかしたんだろ!! だから次郎は島から出て行ったに違いない。島に居れば病気にもならんだったろうに。きっと幸せに暮らしていたに違いない! 私は音楽なんぞ嫌いだ。お前らが嫌いだ! 」 荻島から参列した祖母は母にそんな言葉を浴びせると、祖父に肩を抱かれながら島へ帰っていった。 私はそんな酷いことを言う祖母を嫌った。 『お父さんの事を知らないくせに!! 』 父と過ごした幸せな日々を悪い事のように言う『荻島』が嫌いになった。 泣いて悔しがる私に母は話してくれた。 「蒔絵、おばあちゃんを嫌いになってはダメよ。今は悲しみでいっぱいなの」 「でも、お母さん.... 」 「あなたに話してなかったわね。お父さんが荻島を遠ざけていた理由を.... 」 ・・・・・・ ・・ 次郎さんの生家は代々、荻島の漁を生業とする網元だった。 次郎さんには3つ年の離れた兄の遼一さんがいて2人は幼いころより漁の手伝いをしていたというわ。 親御さんは家業を兄弟で継いでいくものと固く信じていた。 でも、次郎さんは中学の時に音楽に出会った。 蒔絵、お父さんが一番最初にバイオリンで弾こうと思った曲は何か知ってる? ふふ、実はね「ゴッドファーザー」という映画で使われるワルツだったんだって。 映画音楽をバイオリンで奏でるラジオ番組を聴いて、無性にバイオリンを弾きたくなったらしいの。 私が言うのも何だけど何でギターとかにならなかったんだろうね。 それでね、『バイオリンをやりたい』って兄の遼一さんに話したら、『やりたいことがあるならやるべきだ! 』って背中を押してくれたらしいの。 両親にも遼一さんが説得してくれたらしいわ。 そして中学の時に貯めていたお小遣いで6万円のバイオリンセットを購入したんだって。 でも次郎さんが高校3年の時に遼一さんが船から落下して亡くなられてしまった。 そして田宮家の跡取りは次郎さんになった。 もちろん音大への進学も諦めざるを得ない。 そのまま次郎さんは音楽の道を捨て、漁師として生きていくことを決定づけられてしまった。 でも次郎さんは納得できなかった。 自分の人生を知らないところで決定されてしまったことに。 次郎さんは高校を卒業と同時に、誰にも告げることなく荻島を離れた。 それは家を捨てて、自分のやりたい事を選ぶという身勝手な暴挙と呼んでもいい選択をしてしまったの。 音楽の道を選んだことは一度も後悔はしていなかったけど、親を説得することをしなかった事だけはずっと後悔していたわ。 荻島を出た次郎さんは、後に東京まで上京し、プロバイオリニスト早坂光輝(みつき)に師事することになったのよ。 つまり私のお父さんであなたのおじいちゃんよ。 ・・ ・・・・・・ 父はプロとして大成したとは言えなかったかもしれない。 でも指導者として父は誇らしげに胸を張って私に言った。 「蒔絵、音楽の道で超一流になれるのは、ほんのわずかな人たちだ。俺は超一流にはなれなかった。でも、俺は、いま幸せだよ。こうやって自分の望んだ音楽の道にいるのだから。今、俺の教えを受けた生徒たちが、新しい音を奏でる。多くの人々に音を届け、多くの人が感動に心を震わせる。そしてまた音楽を志す人が生まれる。どうだ? これって素敵な事じゃないか! 」 お父さんは不幸なんかじゃなかった。 お父さんは素晴らしい人生を歩んだんだ。 でも..私は.... きっとあれを見つければ何かが変わる気がする。 父も見たあの『青いトンネル』を。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加