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対峙
部屋に戻り、コートを身につけ必要なものを詰め込んだ肩掛け鞄を肩にかける。肩掛け鞄はそんなに大きなものじゃない。通勤にも使っているような、そこそこものだ。大きかったらきっとそれこそ不自然に思われるだろう。中身は普段の持ち物とそう変わらない。折り畳み傘、財布、筆記用具とメモ、常備薬、スマホ、虫除けスプレー。そこに小型の懐中電灯を加えた。防犯ブザーを久しぶりに出してみた。スイッチを押してもうんともすんとも言わなかったからこれは置いていく。
「うまく運べばいいけどな」
最終目的は儀式の続行、つまり『火の玉事件』を止めさせることだ。しかし、今日会ってすぐの人間の説得が通じる保障はないし、無理に止めようとすればそれこそ荒事になりかねない。そうなると今度は私が生きて帰れるかどうかの問題になってくる。
「……」
ちらとスマホを見る。友達申請の通知は消せずにいる。突っぱねて断ったものの、あの申し出は魅力的ではあった。もし私が失敗したら、あのカミサマは信者を向かわせるのだろうか。首を振った。失敗する前から失敗したことを考えるなんて合理的じゃない。今日失敗したところで、私が生きてさえいればまだ儀式を阻止するチャンスはある。
今日の達成できれば最高の目標は”儀式の条件を聞き出すこと”。できれば満たしたい目標は”神を召喚する目的を聞き出すこと”。そして最低ラインの目標は”絶対に生きて帰ること”だ。
家から出て、暫く歩いてからタクシーを拾い浜宇都へ。イタリアンレストランの前で降ろしてもらえば例え『火の玉事件』がこの近くで起ころうと怪しまれることもないだろう。そこから歩いて今日の儀式が行われるであろう場所を目指した。すっかり日が沈んで暗い灰色の町並みを点々と街灯が照らしている。浅見川市には病院が多い。今は中心街の周りに病院が集まっているが、かつては少し外れの浜宇都にも病院が多かったという。今も個人病院が点々と残っているが、浜宇都神経病院が閉院してからはその数も減ったらしい。だから今の浜宇都には活気があまりない。ポツポツと民家と小さな会社などが並んでいる。
浜宇都神経病院跡地は病院が取り壊され、だだっ広い土地が手をつけられないまま放置されている。駐車場跡地のほうは街灯の光も届かない。草やいつの間にか根付いた若木が所々に茂っている。申し訳程度に巡らされた立ち入り禁止の黄色い鎖を跨いで、光のない駐車場の真ん中へ、スマホの光を落としながら歩いていく。真ん中だろうところに目星をつけて立った。スマホの画面を閉じる。町の明かりが遠い。黒い地面に比べれば、群青の夜空が明るく感じる。
目が暗闇に慣れてきても、地面の凹凸さえ見えないほどの暗闇。虫の声ばかり大きく聞こえる。肌寒い。人の気配がないのがこんなに心細いとは思っていなかった。時々遥か遠くに自動車の音が聞こえるとほっとするけれど、それだけ僅かな音が聞こえるほど聴覚を研ぎ澄ませている状態なのだと突き付けられる気分だ。今日はほとんど風がない。そういえば最近雨も降っていなかった気がする。これも儀式と関わりがあるのだろうか。
時間と虫の声だけが流れていく。暗闇に自分の体がするすると解けて同化していくようなそんな心地がしてきた。目を閉じれば微かな風を感じる。体を包む虫の声。
虫の声が僅かに途切れた。その綻びに目を向ける。遠い町の明かりを遮って、誰かが立っている。その人はなんの警戒もしていないようだった。この暗闇に私が、何かがいるなどとこれっぽっちも思っていないのだろう。私は暗闇に慣れた目でその人物がポケットから小さく光るものを取り出すのを見ていた。小さな小瓶だ。オレンジ色の光を発する小瓶。その光に男の顔が浮かび上がる。
「貴方が火の玉事件を起こしていたんだね」
その顔には見覚えがあった。驚いて小瓶を庇うようにする彼は、日中図書館で見た高校生くらいの見た目をした少年だった。
「あんたは誰だ!?」
「安心してほしい、貴方の邪魔をするつもりはない。不思議な事件を追ってみたかっただけなんだ」
ゆっくり歩みよりながら、出来る限りの優しい声音で言う。戸惑った表情が見える。
「それと、聞きたいことも。まずは済ませてしまうほうがいいかな?」
少年は疑うような表情をしていたが、駐車場への道を開けるように身を引けば、とりあえず敵ではないと思ったらしい。小瓶の蓋に手をかけた。ぽん、と音がして、中のオレンジ色の光が掲げた小瓶から出てくる。まるで羽化した蝶が羽を広げるのを高速で見ているかのようにそれは大きさを増して、両掌を広げた程度になると小瓶の縁から飛び立った。それは明らかに手品や何かの類いではなく、そして火の玉に纏わるような死者の魂というイメージでもない。
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