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【夏の昼】
《待宵草》
教会の天辺あたりに付けられた鐘が、街の空気を震わせた。
下働きの子供たちが、こぞって出店に駆け込んでいく軽快な足音が聞こえる。
友のために料理の作り方を記している間に、もうそんなに時間が経ったと言うのか。
けれど。……人のために残り短い時間を使ったと言うのに、不思議と後悔や焦りはなかった。
与えられた時間を受け入れているのか、諦めたのか。
ただ、今を生きなければと言う使命感のみが身体を満たしている。
インクが乾くよう羊皮紙に砂を撒き、先が潰れた羽根ペンをゴミ箱に捨てる。
そろそろもてなしの料理の準備をしたほうがいいだろう。
使い古したヒノキの椅子から腰を上げたところで、僕は妙な違和感に気がついた。
地面に足がついているはずなのに、足の感覚がないのだ。
その上、革のブーツの隙間からは光の粒子がこぼれ落ちている。
「自分の身体が、消滅の道を辿っている」
自分達の種族の命の潰え方や死に様に関する書籍を読み漁った経験もあり、そう理解するのに時間はかからなかった。
せめて友の前では、平常心を保てるだろうか。死なずにいれるだろうか。
《九重葛》
ケイに手を引かれて辿り着いた出店には、これといった売り物が並べられていなかった。
高価な宝石が縫い付けられた藍色の旗が、人寄せの役割も果たさず、店先で項垂れているばかりだ。
「んー、なんのお店なんだろ?」
「情報屋だよ」
心底退屈そうに肘をついている店子の少女が、ケイの問いに応えた。
彼女の声は刃物のように鋭く、すっと耳に入ってきた。
「情報屋、ですか」
取り立てて聞き分けるような素振りも見せず、ケイに返答できたんだ?
そばの人の声すら聞き分けるのが大変な喧騒だというのに。
この少女、只者とは思えない。
念のため、外套に忍ばせた短刀の柄を握った。
「まぁ、そう警戒するな。君たち、この農業の街がこんなに賑わっている訳を知りたくないの?」
少女の声はまるで夜のようにゆったりと這ってきて、僕の中にすとんと馴染んでしまう。
「知りたい知りたい!」
瞳を輝かせて少女の話に食いつくケイに可愛さと呆れを覚えつつ、僕は、少女に銅貨を10枚握らせた。
現金なもので、無表情だった少女はころりと笑顔を浮かべて情報をくれる。
「ラクザバシのあたりで、剣の頂を決める祭りがあるんだってさ。二人で出場可能だと。飛び入り参加も可能らしいし、君達も参加したらどうだい?特に……君」
少女の華奢な人差し指が示す先は、僕だ。
剣の頂。
たったの一言で、普段僕が封じ込めている忌々しい記憶が溢れてきた。
垂らされた救いで徐々に溶けていた心が、一瞬で凍りつく。
半月のような彼女の瞳が、僕が必死に隠している「傷」を覗き込んでくるような気がした。
「……ははっ、そりゃ剣の道は極めてるけどさ」
隣にいるケイが、何処までも純粋で澄んだ瞳で僕を見上げている。
僕のどす黒い過去を知ったら。ここまで堕ちた訳を知ったら。
キミは、僕を見捨てて遠い場所へいってしまうのだろうか。
───気づけば僕は、ケイの手を引いてヅキホオの街を出ていた。
「……マーシャ、どうしたの?顔色悪いかも」
自由気ままで、人に気を使うのが苦手なケイにすら心配をかけてしまうなんて。
僕は一体、どんな顔をしているんだろうか。
わからないけれど。
快晴のキャンパスに描かれた夏の先から、生温い雨が降り注いでいるのだけは確かである。
《花一華》
私の前で、マーシャが涙を流している。
弱みを見せることを是とせず、一片の感情を見せることもなくひとの命を奪っていく彼が。
戦いが終わって依頼主との交渉を終わらせた途端、笑顔で日常に戻る彼が。
あの情報屋で言葉を交わしてから、マーシャの様子は変になった。
なにかやらかしてしまっただろうか、それとも嫌なことを言ってしまっただろうか。
元から人の気持ちをうまく汲み取れない私には、思い返してもどこが間違っているのかよくわからなかった。
「マーシャ?……ごめん」
喉奥に張り付いていた出どころがわからない謝罪を、なんとか絞り出した。
「ん、君のせいではないよ。嫌なことを思い出しちゃっただけ」
たった3歳の差しかないのに、私の手を引くマーシャの手は、分厚く暖かい。
それに、幼い頃から剣を握っていた私よりずっと───
そういえば、騎士の条件を満たす最低限の年齢って、ちょうど私と同じ15歳ではなかったか。
いつかどこかで聞き齧った知識をぼんやりと思い出しながら、私は澄み渡った空を仰いだ。
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