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【九重葛の記憶】
"生涯会うことも叶わないような雲の上の人々を、盲信的に尊び感謝を捧げる愚か者"
城下で生まれ城下で育ち、外の世界を知らないままに結婚した僕の母も、書物でそう評されるタイプの人間だった。
物心がついてすぐの子供たちに剣を握らせ、騎士養成学校もどき(一町民に本格的な学校に通わせるような余裕はない)に通わせて。
僕ら兄弟は、思い通りの成績を収めることができなかったら、食事を抜かれるのはまだいい方で、一日家から追い出されたりするのもごく当然だった。
今考えてみると、僕が生を受けた家庭は「しあわせ」や「普通」とは縁遠い場所だったのだろう。
「王様を御守りする、立派な騎士になりなさい」
どこか惚けたような瞳で僕らにそう言い聞かせる母は、あまり記憶に残ってはいないものの狂気じみていて怖かった覚えがある。
けれど、生まれる場所なんて決めることはできないし仕方がないと受け入れるしかなかった。
世界に順応して、必死に、両親に認められる「いい子」でいようとしなければならなかった。
騎士になれる齢になるまで頑張れば、それで終わり。
騙し騙し前へ進み、思い出したくもない仕打ちを何度も受けて。
気づけば僕は、両親のお眼鏡に叶う「騎士」の座に着くことができた。
「平民出の騎士はたった10枠しか募集されていなかったのに、よく滑り込めたね!」
自分のことのように狂喜乱舞する家族。少し贅沢な甘味や肉を持ってきてくれる近所の人々。
湯水のように浴びせられる賞賛で、今にも粉々に崩れそうだった僕の心もほんの少しだけ持ち直すことができていた。
僕の元にやってくる人々の華やかな表情は、色鮮やかに記憶へと刷り込まれている。
だって………あれが、僕が最高に輝いていれる瞬間だったから。
*
「騎士になった」と一口に言っても、剣技や礼儀の基礎しか学んでいない僕らのようなひよっこには防衛任務などが回ってくることが多い。
その日も、僕らの部隊は森の奥の砦に配属されていた。
隣国とも勢力が拮抗しており、こんなところにまで敵が来るなどあり得ない。
旅人や行商人などの対応は専門の役人がしてしまうので、僕らに仕事が回ってくることもない。
身体が鈍らない為の訓練を済ませた駆け出しの騎士たちは、休憩所に屯して駄弁っている。
努力する気も起きない僕は、起床後すぐに此処に来て、訓練もしないままで独りの時間を持て余していた。
実力が落ちている自覚はある。所謂「堕ちて」いるのはわかる。
このままだと隊から除名されてしまうかもしれない。家に戻されてしまうかもしれない。
焦りはあるけれど、どうしても頑張る気力が起きないままだった。
ぼんやりと、周りの様子を見渡す。
上流貴族の次男三男からコネだけで選ばれた騎士たちと、実力で居場所を獲得した中流・下流貴族出の騎士たちとの間には自然と隔たりができている。
後々自分の身分が危うくなるのを恐れてだろうか。
訓練教官は「私語禁止、持ち場につけ」の命を下す様子もなく、何処かへ行ってしまった。
──ばらばらな身分の、その上心が成熟しきっていない者たちを同じ場所に放り込んでどうなるのか。
運悪く他の平民と同じ隊に配属されなかった僕がどうなるのか。
もうわかっている。慣れているけれど。
それでも───その瞬間まで何をされるかわからなくって、怖い。
バシャン!
水が地面に叩きつけられる音がしたのと、身体中に冷たさが染みていくのはほぼ同時だった。
適当に肩のあたりまで伸ばしていた髪から、ポタポタと髪が滴っているのがわかる。
「なぁ、マーシャさんよぉ?」
目の前に立ちふさがるのは、五代貴族うち一つ「ドーラ家」の三男坊。
鍛えられた彼の腕が、僕の頭上に伸びて。刹那、痛みが走った。髪が引っ張られている、らしい。
「"実力で"入ったって思って、訓練もせず、ずいぶん気取ってらっしゃいますかねぇ?」
第一子と同じような権力も保障されず、女子のように大切に育て上げられてどこか別の家へ行くでもなく。中途半端な立場の彼らにはたしかに同情するが、僕で鬱憤を晴らす理由がわからない。
反抗したら更に痛いことをされるのは間違いがなくて、身分上の関係で暴力でやり返すこともできない。亀の如く蹲り、息を止めて時が過ぎるのを待つしか───
背中に、ドーラ家の三男坊か取り巻きのかの足が乗せられ、勢いのままに椅子から蹴落とされる。
「平民の癖に出しゃばるな」「このまま死んでしまえ」「どうせ一人前になんてなれない」……浴びせられる言葉が、取り巻きの嗤いが、死に瀕した心に突き刺さる。
世界が急速に色褪せ、音が無くなっていく。時間が過ぎることを、願うしか。
ふと、沈黙が降りた。僕が彼らの思い通りに動かなかったから、であろう。
濃密な、憎しみに似た感情が向けられているのが感じられた。
「……コイツ、窓から落とそうぜ」
僕を含め、この場にいる全員が彼の言葉に耳を疑ったようだ。
此処はちょうど2階だ。高いとはいえ木の葉や枝が緩衝材になっていると考えたのか。
だとしても、人を高い場所から落とすなど狂気じみている。
引いているのか、けれど止められないままの周りが不自然な沈黙を保っている。
もしも此処で動けないほどの傷を負って仕舞えば、騎士落第の烙印を押されて家に返されてるのは目に見えている。そうなれば、無理して僕らに教育を施してきたあの母は何と言うか……。
あぁ、誰かなんとか言ってくれ。
人任せで自分勝手な張り裂けんばかりの叫びは、僕の中で凍りついたまま、誰に届くこともない。
瞬間だけが、いやにゆっくりと形を変えている。
反抗する気のない僕は丸太の如く担ぎ上げられ、岩壁に穿たれた窓から放り出された。
「堕ちた」ではない。物理的に、落ちた。
濡れた肌に当たる風が、体を冷やしていく。
枝葉が剥き出しの顔面に突き刺さり、あまり経験しない類の痛みが続く。
近づいてくる地面と想像し得ない大きな痛みを認識する前に、僕の意識は遮断された。
*
手作り感満載な料理の香りと、勢いよく爆ぜる炎の音で現実に引き戻された。
気の利く誰かが毛皮か毛布でもかけてくれたのだろうか、丁度いい温もりが身体を包み込んでいる。
ああ、そうだ。僕は砦から突き落とされたんだったか。
記憶の底から浮かび上がってくる鮮烈な恐怖。理不尽に対する憤りと、何処かに存在する諦め。
それらの想いをなんとか抑え込みつつ、僕はゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界一杯に、光に追い出されて萎縮し切った闇が映し出される。
此処は医務室だろうか。それとも、年配騎士たちの詰所?
寝返りを打とうとすると、足に強い痛みが走った。どうやら、強かに打ち付けたらしい。
「レンレンレン!この少年起きたかも!」
と、甲高い少女の声が鼓膜を揺さぶった。
家に残してきた妹たちより幾分大人っぽく、けれども根本にあるものは幼子のままな、熟成し切っていない林檎酒のような声はどうしてかすっと馴染む。
「ん、起きましたか。マーシャくん、久しぶりですね」
僕を覗き込んでくるのは、数年前と全く変わらない生真面目そうな顔。
近所に住んでいた薬剤研究家だ。
幼い頃、頻繁に菓子やパンをくれたりしていた彼は一応記憶に残っているが……。
気づけば引っ越していた……と言った調子なので申し訳ないが詳しくは覚えていない。
──しかし彼は、レンという名前だっただろうか?
身体を起こしながら、ふとそう思うが。
さして重要なことでもないので、僕は、他にも思い出した情報を引っ張り出して問う。
「レン、さん?ラクザバシに家を買ったと仰っていませんでしたっけ?」
「ん、いやね。薬草の収集に此処まで出向いていたんだよ。ちなみに彼女は傭兵。ああ見えて剣の腕はいいんだよ」
僕とレンが話していて飽きてしまったのだろうか。
少女の方は、煮立っている鍋から何かをよそってこちらに寄越してきた。
この辺りでは珍しい米と、保存が効く二枚貝や干し野菜を一緒くたにして煮詰めてあるらしい。
「クラムチャウダー!どうぞお食べくださいまし!」
召使の真似事か、恭しく差し出される皿と匙を手に取って食す。
騎士団で振る舞われていた安っぽい加工食よりもはるかに美味しい。
クラム……詰め込む、という他国の言葉だっただろうか。たしかに沢山の具材が……
「ちなみにマーシャくん。クラムって、二枚貝っていう意味だよ」
レンのツッコミが飛んでくる。曖昧な知識を許さないタイプなのだろう。
「はー?知ってるよ!」
ついムキになって応えてしまう。ああ、なんだか、暖かい。焚き火で照らされた世界のその先に、僕らの笑い声は吸い込まれていった。
*
「僕はこのままラクザバシに帰る予定だし、君を騎士団に送り届けることもできるんだよ?……本当に、それでいいのかい?」
ラクザバシの街が見下ろせる、小高い丘。
無断で騎士団を抜け出す覚悟があるのか。
レンの優しそうな瞳に宿った不安は、言葉以上に強くそう問うていた。
「はい、悔いはないですよ」
そもそもこれ以上進めば関所の目があり連れ戻されてしまうため、別れの場所として此処を選んだのだ。土壇場で決意が揺らぐ方がおかしいというものだろう。
「マーシャ!行くなら行こうよ!」
僕は騎士団を抜けて、傭兵で身を立てて行く道を選んだ。
そこに何故か、わざわざギルドを抜けてまで僕と同じ道を歩くと決断したケイが付いてくる形だ。
何が待っているのか、どこでどう暮らして行くのか。
レンからの少ない援助とケイの有金、僕の雀の涙程度の金でどこまで持つのか。
わからないけれど、進むしかない。
「わかった、行こう。ケイ」
心配そうにちらちら振り返っているレンに大きく手を振り、僕はケイと共に来た道を引き返した。
生暖かい春風が、輝く祝福を振り撒いていた。
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