【待宵草と花一華の記憶】

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【待宵草と花一華の記憶】

昼餉時に通り過ぎた雨で柔らかくぬかるんだ森の地面は、僕のように自然科学や戦術を齧った者にとっておっては情報の宝庫だ。 例えば落ちてる木の実の大きさからその種全体の熟れ具合などを予測できるし、付いている足跡から便利な獣道や裏道などを特定できる。 が。 片方は、深く大きく規則的な。片方は、浅く小さく跳ねるような。 どんなに予測能力に長けていても、この付かず離れずの距離を取った正反対の足跡から僕らの関係性を予測することはできないだろう。 そんな足跡を点々と続けながら、僕の顎あたりの背丈の少女・ケイがふと顔を上げた。 「ねー、レン!向こうから潮の香りがするかも!あっち側にならルリマツリなんかの手に入りにくい薬草があるんじゃない?」 ラクザバシ一の規模を誇るギルドから派遣された傭兵は、僕の想定よりひと回りは幼く、そして好奇心旺盛だった。 「いや……ルリマツリは、ケラトスティグマでも代用が効く。わざわざ行く必要はないかな」 「えっそうなの!知らなかったかも!んじゃ、予定通りにこっちか!」 ただ、筋道を立ててきちんと説明すれば、ふらりと何処かへ行ってしまうようなことは防げるから、粗暴な傭兵よりかは手綱は握りやすかった。 それに、僕の他愛ない話にも興味深く聞き入ってくれる上に、吸収も早いから語り甲斐がある。 "久しぶりに人と交流を持った"というところもあるだろうが、かなり愉しい。 と。新緑の天蓋越しに、空が黄昏に染まっているのが垣間見えた。 「野宿の準備、しようか!薪の準備はできるよ!」 変に街道の傍などで夜を明かそうとすると、ごろつきや盗賊に身包みを剥がれかねない。 身体を休める場所として人気がない場所を選ぶのは、複数人の旅では基本だ。 僕は傭兵の少女の判断に感服しながら、道具袋から大鍋を取り出した。 続けて出したのは、長期保存が効き、水さえあれば食べれる米。 川から汲んできた水と、摘んだ香草で適当に煮ればいいだろう。あとは塩漬け肉を少々……。 贅沢はできないし、夕餉はこれで済まそう。 思考をこねくり回しつ毛布を取り出して敷いているうちに、焚き火は出来上がっていた。 誰のものでもない森の一角が、橙に爆ぜる光で僕らの居場所に塗り変わる。 子どもの頃、押し入れの奥に作った秘密基地にいる気分だ。 * ごそごそと何かを漁る音で、浅い眠りから覚醒した。 上弦の月が沈むまでの寝ずの番はケイに任せているから、もう暫く寝ていてもいいと言うのに。 意識の次に眠りから引き戻された嗅覚が、漂う自然由来の甘さを教えてくれた。 この香りの正体、音の正体は何だろう。……と、音の方は完全に止まった。 深い森の静寂を飾り付けるのは、夜行性の動物の鳴き声や足音、そして人工的な炎の音。 研ぎ澄まされた聴覚が拾い上げる事象が怖くなって、なんとか目をこじ開けた。 不規則に揺れ動く火影が、視界の端で踊り狂っている。 時間さえあれば振り回していた剣を腰の鞘に仕舞い込み、橙の光を背に蹲っているケイの姿も見えた。体調不良だろうか、それともただ単に寝込んでしまったのだろうか。 声をかけなければ、と思うけれど。 ゆっくりと回り始めた思考の歯車に、泥のような睡魔と疲労感が纏わりついて起き上がる気力が湧いてこない。 もう一度眠りの世界へ旅立とうとした時のこと。 「ぺら……」と言う乾いた音が、僕の鼓膜を揺らした。 あまりにもこの場にそぐわなくて、本を捲る音だ、と認識するまで数秒はかかったと思う。 その間にも、ぺら、ぺら、と項を捲る音は続いていた。 なるほど。さっきの物を漁る音は、鞄の中から本を引っ張り出す音か。 図書館や書斎でもないこの場にある、本は………。 僕の意識は、一瞬で残酷で無情な世界へと引き戻された。 「ケイさん。何を読んでいるんですか?」 考えるより先に口から飛び出したのは、想定よりも遥かに冷たくて無機質な声。 僕より数百歳若い少女は、びくりと大きく肩を跳ねさせて本を閉じた。 牛の皮に魔法使い特製の加工を施し、手間暇かけて模様をつけた本の表紙が闇の中で煌めく。 「……面白そうな物語本だったから、つい……。ごめんなさい!あの、それ以外は何も触ってないです!」 「……いいですけど。あの、物語の内容はどうでした?」 興味深さと真実だけに染まっていたケイの瞳を見て追求する気も失せ、本の感想を求めた。 様々なひとに「夢を見過ぎた部分が多い」と酷評された物語は、どんな評価を受けるのか。 期待と諦めが入り混じった興味以上の想い。 体の奥底で次第に勢いを増していく鼓動を感じ、僕は、自らが緊張していることを自覚した。 慣れない感情を紛らわすべく、乾いていた唇をぺろりと舐める。 刹那の静寂の後、少女の口から雪崩にように言葉が飛び出した。 「えっと……最高だったよ!残酷な描写は説明文みたいな無機質さで描かれてて、主人公の恐怖がひしひし伝わってきて……楽しそうな場面は、繊細な表現が散りばめられてて、まるで実体験みたいだった!展開も凝ってるし面白い!」 ───ケイはどこまでも鋭かった。 その本は僕の経験談………いつからか、なんとなく付けていた日記だ。 思い出したくもない場面は感情を殺して現実を忠実に書き、擦り切れたレコードのように繰り返し味わい直したいひとときは細かく丁寧に書く。 そのこだわり(いや、自然にそうなったんだが)や僕の過去が高評価を受けて………認められて。 勝手に内容を読まれた怒りや、異種族であることが露見するのではないか、といった恐怖よりも、喜びが大きく優った。 「それで……?」 続きの言葉を求めるのは傲慢な気がするが、そう問うた。一言も聞き漏らすまいと耳を傾ける。 「あと、主人公の魔法使いが、決して諦めないし逃げないってところもかっこよかった!私は……両親を継いで商人になるのも嫌で、無様に逃げて逃げて、好きなことだけ見て、間違えまくって幸せを手放して此処に居るからさぁ」 心底楽しそうなケイの雰囲気が、一瞬で深く重いものにすり替わる。 本人は自覚していないのだろうが、彼女からは、後悔と懺悔が沈澱した自虐的な香りがした。 この感想のお礼、というわけではないが、僕はケイに手を差し伸べなければならない。 彼女は、今にも壊れてしまいそうな不安定さを内包しているから。 「逃げるのはみっともないことじゃないし、間違いでもないですよ。生きるために必要なことなんですし、その先にしか開けていない未来だってあります。逃げるのは、生存本能なんですよ」 「そう……なのかな。んでも、逃げたら後ろ指を刺されるし、どこに行っても安寧や幸福とは程遠い場所にしか辿り着けない……かも」 同じ種族から後ろ指を刺されるかもしれない恐怖。いや、でも。 ひとというのは、自分のことに精一杯で案外周りを見ていないものだ。 だから、ゆっくり言葉を選んで伝えた。 「新しい場所に行けば新しい出会いや出来事があって、嫌な過去や人間関係とはすっぱり縁が切れてしまうんです。だって、貴方が逃げた場所にいた人たちも自分の生活を守るのに精一杯で、貴方を追う暇なんてないから。嗤う奴がいたら、嗤わせておけばいいんです。逃げた貴方がその悪意を浴びる機会はもうないんですから」 言葉が溢れ出てくる感覚が途轍もなく懐かしく、そして爽快だ。 幼い頃に御伽草子の真似事を書いた時と同様に、言葉を結末へと収束させていく。 「だからどこを選んでも、ゼロからですけどいくらでもやり直しが効きますし、幸せを手に入れるチャンスも場所も平等に存在しているんです」 その言葉群で、都合よくケイを救えた気はしない。 けれども、背負っていた過去を軽くしてやることはできた気がした。 どんな想いによってか、まん丸に見開かれたケイの瞳が僕の瞳をしっかりと見据える。 「貴方……。まるで、この物語の主人公みたい……だね」 正直な肯定も嘘まみれの否定もできない僕のせいで、その場には静寂が横たわった。 パチパチと火が爆ぜる音だけが闇を満たす。漂っていた甘い香りが、一層強まった気がした。 「あっ、忘れてた」 呟きと共に、ケイが火の中に突き立てていた棒を引き抜くと、よく焼けた甘薯が姿を現した。 縦長の芋を半分にし、少し大きな方を僕に手渡しながらケイは空気を塗り替えるように締めくくった。 「……とにかく!あの物語の早く続きが読みたい、な!」 けれど、そんなケイの台詞に、僕は苦笑いを返すしかできない。 「魔法使い排斥」の風潮が過ぎ去った今の時代。 繰り返しの日常を過ごす僕には冗長な駄文しか書けないし、日記の続きを紡ぐ気はさらさらないのだから。 慌てて視線を逸らしたが、向日葵のようなケイの笑顔は記憶の収容庫に焼き付いてしまった。
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