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年下の彼
マンションの部屋を出て、最寄り駅まで向かい掛けた裕菜だが、スマホを持たずに来たことに気付き慌てて部屋へ戻り、スマホを手に靴を履いていると、愛猫が見送りに玄関へ姿を現した。身を屈めてそっと抱き上げ鼻先でキスを交わすと、
「あん……また別れが辛くなっちゃうじゃん──」
部屋の奥で、未だ寝ているのだろうもう一匹の仔猫に『行って来るよ』と声を掛け玄関を出たのだが、
「やだぁ、もぅ──急いでるのに」
施錠しようにも鍵が見当たらず、困惑を眉間へ乗せた。
部屋へ戻った時を思い返した裕菜は、慌てていたもので解錠した動作のまま、無造作に鍵をバッグへ投げ戻してしまったことを思い出した。
バッグに手を入れて探っていると、慌騒しく言い争う声が響き、裕菜は驚いて声が落ちて来た方向を仰ぎ見た。上の階で若い夫婦が言い争っているようだが、世間体を思ったか、喚き声は直ぐにトーンダウンして聞こえなくなった。
鍵を探し当て施錠し、駆け足でエレベータホールに到着した裕菜が、丁度上階から降りて来たエレベータに乗り込むと、先に乗っていた男性が軽く頭を下げた。裕菜も会釈を返し、背中を向けるとエレベータの扉へ顔を向けた。
何度か見たことのある、裕菜の真上の部屋に住む男だ。仲々のハンサム。裕菜と同年代だろう、二十代後半と言った処。子どもは見ないが妻らしき女と共にいる姿を幾度か見ていた。
(……さっきの声、この人かぁ──)
会釈を交わした際、瞬時バツが悪そうに瞼蓋を伏せたその様子に、先ほど上で言い争っていた人物だと察しを付けた。朝の通勤時刻だと言うのに、Tシャツにスウェットパンツ……多分休日の朝なのだろう。
この年齢の男女は、些細なことで直ぐに言い争いになる。覇権争いででもあるように、裕菜も彼氏とよく言い争いをした。先ほどのように朝は特に──
(元気にやってるのかな?)
二ヶ月前までこのマンションで同棲していた彼を思った。
転勤が決まり、一緒に来ないかと聞かれた。行く先は海の向こうの外国で、それがプロポーズだった。
けれど、裕菜は仕事を理由に着いて行かなかった。
有名デパートが勤務先。特選品売り場の主任を任されたばかりで、理由としては格好がついたが本心は違った。
(彼が頼りなかった──)
四つ年下の彼だった。一年浪人した大学を出て商社に入り一年ちょっと。未だ学生気分が抜けず、ハングリーさも無いことでよく喧嘩になった。そう──先ほど彼らが言い争っていたように……
エレベータが一階に到着し、扉が開くと裕菜は勢い良く走り出した。終わらせた恋のほろ苦い思い出を振り切るように。
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