28人が本棚に入れています
本棚に追加
薔薇王子
彼は生まれてこのかた薔薇の花弁しか食したことが無いという。
人を愛せない彼が唯一愛するものは薔薇であり、触れるものも口にするものも薔薇でしか有り得ない。
故にその吐息も涙も芳しく香り立ち、甘いのだという。
彼は無数の薔薇に囲まれた温室の中で、ひっそりと暮らしている。
イブリンがその薔薇王子付きのメイドに抜擢されたのは、単なる順番だった。
先輩メイドらが軒並み脱落し、残ったのはメイドになって数ヶ月と日の浅い新人のイブリンのみになったのだ。
王子に専属のメイドをつけても長く持たない。
僅かも経たぬうちに、お役目を解いてくれとメイド長に泣いて縋り付く。
しかし、その理由については明かさない。
皆、青い顔をして頑なに口を噤むのみだ。
(それでもお給金は三倍だというのだから、せめて一ヶ月は頑張りたい)
イブリンは胸の前でグッと拳を握った。
弱小貴族の三女であるイブリンだから大した縁談は見込めない。
プライドばかり高いおかしな貴族や好き者の金持ちに虐げられる未来より、平民に下りてでも独り立ちしたい。
容姿も知能も平凡だが、幸いに根性だけはある。
そのためにも資金はたくさんあった方が良いのだ。
王子は薔薇の温室兼研究室に籠っている。
イブリンと同じく兄弟の三番目で身軽な立場の彼は、王族でありながら自らを薔薇研究家と名乗り、一日の殆どを研究に費やしているらしい。
イブリンは温室のドアに取り付けられたチャイムを鳴らして入室する。
途端に生暖かい空気が噎せ返るような花の香りと共に押し寄せた。
イブリンは顔を顰め、昼食の入ったバスケットをギュッと抱える。
そして、色とりどりの薔薇が両側から押し寄せる通路を、恐る恐る奥に向かって進みはじめた。
明るい陽射しに満たされた温室の中は蒸し暑く、みるみるうちに額に汗が滲む。
突如前に現れた蔓薔薇のアーチに足を踏み入れ、こちらに向かって伸びる徒長枝の棘を避けつつ進んだ。
王子のいる研究室までは大した距離もない筈なのに、強烈な香りと熱、それに緊張も加わって、やけに疲労する。
それは水を含んだ雪のようにイブリンの内側に蓄積され、目的地である研究室に着いた頃には意識が朦朧としていた。
それでも何とか力を振り絞り、白く塗装された扉をノックする。
「殿下、昼食をお持ちしました」
「入りたまえ」
扉の向こうから聞こえた涼し気な声に、イブリンは覚醒し、背筋を伸ばして気を引き締めた。
「失礼致します」
麗しの薔薇王子は、部屋の中央に置かれた白い丸テーブル着いていた。
どうやらこちらへ視線を向けているようだ。
天窓から降り注ぐ淡い光が王子の纏う白の王族服と溶け合い輪郭を曖昧にする。
イブリンはよく見ようと目を凝らした。
「君が新しいメイド?」
声を出すことも叶わず、イブリンはただ頷く。
「こちらへ」
「は、はいっ!」
慌ててテーブルに近づきバスケットを置くと、掛けられていたナプキンを引いた。
「殿下が所望の薔薇のジャムに御座います」
「ありがとう」
王子は白い深皿を取り出すと、たんまりと盛られたジャムにスプーンを差し入れる。
そして、優雅に口へと運ぶ。
イブリンはその様子を惚けながら見ていた。
至近距離で見る薔薇王子は、まことに美しい方だった。
サラサラの金髪は陽射しを蓄えてキラキラ輝き、長いまつ毛に覆われた青い瞳は憂いを帯び。繊細な直線を描く鼻筋と、赤い唇……
白い王族服を白い肌に纏うお姿は、神々しくも儚く、今にも光に溶けてしまいそうだ。
王子がふと目を上げてこちらを見たので、イブリンは思わず息を止めた。
「君、名前は何と言うの?」
「イ、イブリンに御座います!」
「イブリン、美しい名前だね。向かいにお座り、お茶をご馳走しよう」
「めっ、滅相も御座いません!!殿下自らそのような!!」
「ポットから注ぐだけだよ。僕が煎じたハーブ茶なんだ。感想を聞かせて欲しい」
イブリンはぎこちなくも椅子を引き、ちょこんと腰を下ろした。
向かいから押し寄せる高貴なオーラに身が竦む。
差し出されたお茶を震える手で受け取り、ソーサーから指先が離れるのを待ってから、取っ手を掴んで一口飲んだ。
ところが……
「んぐっ、ぐわあはーーーーー!!!」
イブリンは思わず吐き出した。
口の中に広がる苦味と渋みと青臭さと……とにかく物凄く不味い!
と、いうかこれ、毒じゃね?
イブリンはハッとして口を覆う。
……もしかして、先輩方が専属メイドを辞退したのは毒味役、つまり王子の研究の実験台にされそうになったからじゃあ……
「大丈夫?ごめんね、やっぱりまだ飲みにくかったかぁ」
肩からにゅっと差し出された白いハンカチを見て、イブリンは凍りついた。
いつの間にか背後に移動した王子が、そっと背中をさすっていることに気付き、さらに硬直した。
「ひっ、で、殿下っ、だ、大丈夫ですのでっ、あの、お構いなく!!」
「僕は飲み慣れてしまったから全く味がわからなくってね……不味かったんだろう?正直に言って欲しい。皆我慢して飲み干すけど、次から来なくなってしまうんだ」
「は、はあ、あの、クソまずいです!」
「ふふ……ありがとう」
両肩に手を置かれ、イブリンはビクリと身体を震わせた。
サラリと音がして金色の髪が目の端に映る。
王子がイブリンをじっと覗き込んでいた。
イブリンの鼓動が跳ね上がる。
「イブリン、君は他の子達とは違うようだ。是非とも僕に協力してくれないか?」
や、やっぱり実験台。
いやだ、死にたくない。
イブリンは勇気をふり絞り抵抗する。
「お、恐れながら、私はメイドで御座います。そのようなお役目は職務外です」
「では、特別手当を支払おう」
「とっ、いや、でも命には変えられませんので」
「大丈夫だよ、命を脅かすようなものじゃない。専門家の助言も貰ってるし、何より僕自らで実験済みだしね」
イブリンは恐る恐る隣りに目を向けた。
「そ、それではその、それは……いったい何の実験なのでしょうか?」
王子はにっこりと微笑んだ。
イブリンはあまりの眩しさに目を激しく瞬いた。
最初のコメントを投稿しよう!