薔薇の雫

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薔薇の雫

「僕はね、薔薇人間を作りたいんだ」 イブリンは薔薇がドレスを着てクネクネと動いている想像をして青ざめた。 「そ、そのような、非人道的かつ倫理に反する実験には協力出来兼ねます」 「ああ、言い方が不味かったね。正確に言うと、身体の全てから薔薇の香りを放つ人間だ」 「香水を塗りたくれば良いのでは……」 「それでは駄目なんだ。僕が目指すのは、内も外も体液も全て薔薇の香りがする人間だ」 イブリンは顔を歪ませて美貌の王子を見た。 王子はくくっと笑い、嬉しそうにイブリンを見返す。 「ふふ、イブリンは思っている事がそのまま顔に出るんだね。とても良いね」 「無礼をお詫び致します」 イブリンは俯いた。 変な実験に加担するのは嫌だが、王族から不敬を買うのも不味い。 「謝らなくって良いんだよ。僕は嬉しいんだ。僕の周りは本音で話してくれない人間ばかりだったからね」 イブリンは顔を上げた。 王子は寂しそうに目を伏せている。 「といっても、僕がこんな好き勝手を出来るのも王子であればこそなのだから、不満を持ってはならないのだろうけど」 イブリンの胸がキュンと鳴る。 可憐な王子がしゅんとする様は、イブリンの母性を激しく揺さぶった。 「それで、あの、私はどういったカタチで協力させて頂ければ良いのでしょうか?」 「協力してくれるの?!」 王子は喜色を滲ませた声を上げ、テーブルに手をついて立ち上がった。 青い瞳がキラキラと輝いている。 「そっ、それは、な、内容によりけりけりけり……」 「エキスはもう出来上がっているから、それの服用方法の検証なんだけど、あ、イブリン、料理は出来る?」 「た、多少は……」 「それは心強い!!」 王子はテーブルを回り込み、イブリンの手を握りしめてブンブンと上下に振った。 「特別手当ならいくらでも支払うよ!!よろしくね!イブリン!」 そして、翌日からイブリンのメイド兼助手としての日々が始まった。 人の身体の内外を薔薇の香り漬けにするためのエキス(別名:薔薇の雫)が入っているという三角の小瓶を、王子はテーブルの真ん中に置いた。 掌にすっぽりと収まるほどのそれは、薄い水色の硝子で出来ており、その中央は薄紫に滲んでいる。 どうやら薔薇の雫は紅色らしい。 問題はこれをどうやって摂取するか、なのだと王子は言う。 「イブリンが初日に飲んだお茶には、薔薇の雫を一滴だけ垂らしたんだ」 一滴であの破壊力。 とても飲めたものでは無かった。 「薔薇人間を作り上げるためには少なくとも一日十滴は摂取する必要がある」 うっへぇ、死ぬ死ぬ。不味すぎて死ぬ。 舌が死ぬ。 「癖のあるハーブティーに混ぜれば誤魔化せるかと思ったんだけど……」 「殿下、それなら最近王都で人気の珈琲は如何でしょう。私は一度飲みましたが、かなり癖があるし苦味も有りますよ」 「そんなのがあるの?!良し、試してみよう!」 それから、イブリンと王子はあらゆる食材を試した。 しかし、思うような成果は上がらなかった。 ガックリと項垂れる王子を前に、イブリンはそのサラサラの髪を撫でて慰めたい衝動を、ぐっと抑え込む。 王子がはぁと悩まし気な溜息をつくと、ふわぁっと薔薇の香りが漂った。 王子が薔薇を食し、その香りを纏っているというのは噂通りだった。 但し、生まれてからずっとではなく、研究を始めた五年前からであるらしい。 半年前に薔薇の雫が完成してからは、更にそれを加えて摂取し続けているという。 何故そうまでして薔薇人間になりたい…いや、作りたいのだろう。 皆が話していたように、薔薇への愛が強すぎるのか? しかし、これだけたくさんの薔薇に囲まれていても、王子がそれらをそこまで愛でているようには見えなかった。 もちろん、献身的に世話はしている。 しかし、栽培されている薔薇は、とにかくたくさん花芽を付け、強く香るように改良されてはいるけれど、色や咲き方に関しての拘りは感じられなかった。 部屋に持ち込まれるのは薔薇の雫を抽出する為に無造作に毟られた花だけ。 飾るための花瓶のひとつも見当たらない。 イブリンは考える。 専属メイドになる前までは、王子の存在は妖精か珍獣のようなイメージで、まるで現実味がなかった。 何故なら、第三王子は公の場に姿を現すことがほとんど無かったから。 皆はこの末っ子王子のことを、薔薇に魅せられた『薔薇王子』と呼んでいた。 本名で呼ぶ者は誰もいない。 彼が愛するのは薔薇のみ。 生身の人間には興味がないのだ、と。 しかし、実際の王子は、類まれなる美貌と専門家も顔負けの利発さを持つ一方で、悩んだり、喜んだり、気遣いも出来る、至って普通の感情を持ち合わせた人間だった。 だからこそ尚更不可解なのだ。 何故、薔薇人間を作るなどという奇抜な望みを抱くようになったのかが。 「これでは、間に合わない…」 王子の小さな呟きが耳に入り、イブリンは後に続く言葉を拾うべく耳を澄ました。 「あと三ヶ月しかないのに…」 三ヶ月後…? イブリンはメイド採用時に説明された王宮の行事予定を思い出す。 「殿下の生誕パーティまで完成させないとならないのですか?」 イブリンの問いに、王子は再びため息をつく。 伏せられた長い黄金色のまつ毛に光が乗る。 両手の長い指を絡ませて、王子は頷いた。 「僕は二十二歳になる。そして、エカテリーナと結婚する」 王子の婚約者エカテリーナ様は、筆頭貴族のひとつであるフィギュ家のご令嬢だ。 デビュタントでお見掛けした事があるが、砂糖菓子のようにフワフワとした空気を纏う、甘い顔立ちの美少女だった。 型落ちのドレスで参加したイブリンは始終壁の花だったが、エカテリーナ様は常に華やかな男女に囲まれていた。 「それはおめでたいことでございます」 美男美女カップル誕生だ。 まるで人形のように美しい二人は、王宮を彩る華となるだろう。 それこそ、薔薇のように。 しかし、王子は浮かない顔で手元の薔薇から花弁をむしり取る。 「それまで間に合わせたかったんだ。…自分の為にもエカテリーナの為にも。薔薇の研究はそれ迄許された僕の道楽で、生誕パーティが終われば止めなければならない。この研究室も取り壊される」 イブリンは王子の顔を覗き込む。 「私が殿下の研究を引き継ぎましょうか?薔薇の雫を預けて頂ければ、自室でも充分継続が可能です」 「イブリンは優しいね」 王子は微笑むと、テーブルに置いたイブリン手の上に自らの掌を乗せて、そっと撫でる。 その親しげな行為に、イブリンの胸が高鳴る。 「でも、良いんだよ。これは僕の我儘で始めたことだ。完成しなかったのなら諦めて受け入れるしかない」 「…まさか、殿下はエカテリーナ様との結婚を望んでいらっしゃらないのですか?」 王子はゆるゆると首を振る。 「エカテリーナはとても可愛らしい。僕は愛しく感じているよ。だからこそ傷付けたくなかったんだ」 そして、王子は薔薇人間を作ろうと思い立った経緯を語り始めた。 王子は匂いに過敏に反応する質(タチ)なのだという。 その中でも特に体臭や人から放たれる匂いに対しては顕著で、場合によっては嘔吐や卒倒してしまう程であるらしい。 「僕はこの体質を呪ったよ。相手にも気を遣わせてしまうからね。元々社交的な性格ではなかったけれど、症状が出るようになってからは益々人を遠ざけるようになってしまった」 それでも避けられない事もある。 そのひとつが婚約者であるエカテリーナとの月に一度の会談(デート)だ。 エカテリーナは毎回精一杯着飾って現れる。 その日も、レースとリボンをふんだんにあしらったピンクのドレスで現れた。 頬を染めてはにかむ少女を少し離れた場所から見つめながら、王子は微笑む。 お人形のように可愛いこの少女を王子は好ましく思っていた。 将来夫婦になる事に異存はなく、楽しみでさえあったのだ。 バラ園の真ん中にあるテラスでテーブルに向かい合って座り、二人でとりとめのない話をする。 まだ幼さの残るエカテリーナの話は微笑ましい。 王立学園での出来事やら飼っている兎が如何に可愛いかなどを木琴のように軽やかに奏でる。 王子はその演奏を楽しんだ。 しかし、それはその最中に起こった。 「その日、テーブルに並んでいたのはスイートポテトと栗のモンブラン、パンプキンパイにずんだ餅」 イブリンはゴクリと喉を鳴らした。 まさか… 「彼女を責めることはできない。緊張もしていたのだろう、僕も配慮すべきだった」 空気が抜けるような音が聞こえた後、そよ風に乗って、王子の鼻先がその匂いをキャッチした。 王子は取り繕うことも出来ずに鼻と口を押さえる。 しかし、防ぎきれず、仰向けに椅子ごと倒れた。 駆け寄るエカテリーナだったが、吹きかかる口臭が更に追い打ちをかけた。 「そして僕は気絶した」 イブリンは唖然とした。 王子はその時のことを思い出しているのか、苦悩の表情を浮かべている。 「僕は許せなかったんだ」 「エカテリーナ様のお…粗相をですか?」 「違う!!」 王子は目を潤ませ声を荒らげた。 「可憐なエカテリーナを、たかが臭いで厭んでしまった自分がだ!!」 イブリンは瞬く。 「可哀想なエカテリーナ!僕の婚約者となってしまったばっかりに、不幸な夫婦生活が約束されてしまった!」 「…それで、エカテリーナ様に薔薇人間になって頂こうと考えたのですね」 王子は顔を覆う。 イブリンは王子の背中にそっと手を置いた。 「なんとお優しいお心でしょう。殿下にそんなに思われてエカテリーナ様はお幸せですわ」 「僕の体質に付き合わせるだけだよ!僕の我儘なんだ!!」 「いいえ。それに私、思うのです。殿下の研究は殿下と同じく臭いに過敏な人々、体臭に悩む人達にとっての希望です。薔薇の雫は多くの国民を救うでしょう」 王子はガバッと顔を上げた。 その青い瞳は濡れて輝いている。 「あと三ヶ月もあるではないですか、諦めずに完成させましょう!」 王子は歓喜に震えながらも力強く頷いた。
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