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助手は逃亡す
王子は注入器の先端をトピトピの粒に突き刺し、膨らんだゴムをゆっくりと押して空気を送り込む。
イブリンはその様子を息を呑んで見つめた。
透明なトピトピの中央がほんのりと桃色に染まっていく。
薔薇の雫の色だ。
イブリンは感嘆の溜め息を漏らす。
白い小皿の上に現れた美しく魅惑的な宝石をうっとりと見つめ、隣の王子に視線を向けた。
ちょうどこちらを向いた王子と目が合う。
その瞳の中に溢れ出る喜びの色を確認し、イブリンは微笑む。
王子は信じられないというように小さく首を振ると、イブリンに手を伸ばし、抱き寄せた。
「イブリン!君は凄いよ!僕の天使!」
いきなりの抱擁に焦りつつも、王子の歓喜ぶりが嬉しくもあり、イブリンはなすがままになる。
しかし、興奮した王子が髪に鼻を突っ込み、こめかみに唇を押し当てたので、イブリンは驚いて押し退けた。
「ハイハイ、どうどう、殿下落ち着いて。まだ喜ぶのは早いです。試食してみないと、ねっ!」
王子は頬を紅潮させながら、ワタワタと手を掲げ、椅子の上で身体を跳ねさせた。
「そっ、そうだね!じゃあ、イブリンお願い出来るかな?僕の味覚は普通じゃないからね」
王子は中央が桃色に染まったトピトピを、ピンセットで慎重に摘むと、小さめのグラスの底に置く。
そして、カップの中に残る甘いお茶を注ぎ込んだ。
長い指が差し出すグラスを手に取り、期待に輝く青い瞳に見つめられながら、イブリンはそれを一気に喉へ流し込んだ。
冷たく甘い液体が乾いていた口内を潤しながら奥へと進み…微かにつるんとした塊が喉を滑っていくのを感じた。
一瞬のことだった。
イブリンは喉を鳴らしてすべてを飲み込むと、グラスを両手で握り締めながら、再び隣を見た。
「完璧です!一切味を感じることなく飲み込めました!!」
「イブリン!!」
再び伸ばされた両手を咄嗟に受け止め、イブリンはそれを握って上下に振った。
「やりましたね!殿下!!」
「イブリン!!」
「生誕パーティに間に合いました!!」
「イブリン!!」
王子は歓喜の声を上げながらも腕を伸ばすことを諦めず、結構な力で押してくる。
イブリンは笑みを崩さないまま、それを必死で押し止める。
冗談じゃない。
また、あんな抱擁をされたら心臓壊れる。
理性が持たない。
これ以上、王子に邪な思いを抱きたくない。
その感情は邪魔以外にしかなり得ず、危険でさえあるのだから。
「これでエカテリーナ様との幸せな未来が約束されましたね、心よりお祝い申し上げます」
王子はその言葉を聞いた途端、手から力を抜いた。
喜色を失い真顔になり、じっとイブリンを見つめる。
イブリンは思いもがけない王子の変化に戸惑った。
「あ、あの、殿下?何か他に心配事でも?」
王子はイブリンから目を逸らすとテーブルに肘をつき、顎を乗せて溜め息を漏らした。
「最近、ふと考えてしまうんだ。この研究が終わる日のことを。そして、とてつもなく寂しくなる」
「で、殿下、その寂しさもお可愛らしい奥様をお貰いになれば直ぐに感じなくなりますわ」
「…そうだろうか」
「愛でるのが楽しくてそれどころじゃありませんわ!きっと毎日が薔薇色に感じる事でしょう!」
大袈裟に盛り上げながらもイブリンの心は切なく締め付けられていた。
私だって寂しい。
もう直ぐ殿下のお側に居られなくなる。
優しい眼差しも心地よい声も真近に感じることは叶わない。
お姿を遠くから眺めるだけになるだろう。
しかし、それで良いのだ。
一介のメイドでしか有り得ない自分が、高貴な身分のお方とこれ程まで親しくなるなど、本来なら許されないこと。
特に最近の距離の近さは異常。
素肌に触れてあらぬ所の匂いを嗅ぐなど…
バレたら大変なことになる。
「薔薇色の毎日…エカテリーナと」
「そうですわ!甘い甘い薔薇のジャムのような蕩ける新婚生活が目前ですよ!」
「薔薇のジャムのように…蕩ける…」
「そうそう!!後は検証だけですけれど、殿下で立証済みですから省略しても良いのでは?」
王子はグリンと首を回してイブリンを凝視した。
その真剣な表情に、イブリンは笑顔を引っ込める。
「駄目だよ。検証はしっかりしないと!」
「そ、そうですね、すみません、軽率でした」
「今日からイブリンに薔薇の雫を服用してもらう。効果が現れるまでに要する期間、残効期間のデータを取ろう」
「は、はい。朝晩チェックすれば良いですか?」
「僕がチェックする」
イブリンは硬直し、唾を呑んだ。
「僕の方の検証も継続する。これから毎日、お互いの匂いを嗅ぎ合おう。全身の…」
「ぜっ、ぜ、全身…?!」
王子は真顔で頷いた。
「面倒だから一緒に済まそうか。イブリン服を脱いで下着になってくれる?」
まただよ、しれーっとんでもない事言ってるよ?
「い、いえ、殿下、殿下の御前に見苦しい格好を晒す訳には参りません。私は王族にお仕えする王宮メイドでございます。規則に反することは出来兼ねます」
「イブリンは僕の助手だろう?手当だって僕から直接支払っている」
「…………」
「大丈夫、僕は紳士教育をキチンと習得済みだ。レディの扱いは心得ている。検証以外の目的で触れたりはしないと誓う」
「勿論それを疑っている訳ではありません。けど、殿下よくお考え下さい。下着姿で匂いを嗅ぎあっているところを、万が一誰かに見られたとしたら…」
王子は窓に駆け寄り遮光カーテンを閉めると、裏口と温室へと繋がる出入口の鍵を閉め、嬉々として振り向いた。
「これで誰にも邪魔されない!」
やたらとやる気に満ちた王子の行動にイブリンは焦る。
確かに、これで誰の目も触れず、突然の来客にも対応出来る。
しかし、イブリンには予感があった。
これを許してしまえば、取り返しのつかない事になるような。
「で、殿下、私は薔薇の雫をたった今飲んだばかりです。検証は明日で良いのでは?」
「だから、変化する前のイブリンの体臭を覚えておくんだよ」
「いいえ!」
イブリンは首を振り、キッパリと拒否した。
「止めましょう。私の体臭をまともに嗅げば、殿下は無事では済まぬでしょう。殿下のお命を危険に晒す訳には参りません」
イブリンはテーブルの上から小瓶と注入器、トピトピが残るカップを素早く掴むと、扉へ向かった。
「私はこれからトピトピに薔薇の雫を注入して飲むことに致します。厨房へ足を運び、トピトピの入手方法も確認してまいりますので、本日はこれでお暇致します」
「トピトピへの注入はここですれば良いだろう?」
「トピトピの数が足りませんので補充しませんと。出来れば数日分まとめて作り、保存したいので…」
「厨房から持って来させれば良い。研究室には保冷庫もあるのだから」
「では、私が頼んで貰ってまいります」
イブリンはノブの真下にあるスライド式の鍵の摘みをそっとずらした。
王子がテーブルを急いで回り込む。
白いジャケットの裾が翻る様を目の端に捉えながら、イブリンは鍵を解除し、ドアノブを掴んで押した。
温室に差し込む明るい日差しに目を射られながらイブリンは薔薇のアーチに飛び込んだ。
頬に蔓の棘が当たり鋭い痛みが走ったが、気にする余裕など無かった。
下着姿で王子と抱き合うなど、絶対駄目だ。
生誕パーティまで十日も切ったこの状況で、そんな危険な行為を王子にさせる訳にはいかない。
なんとしても阻止しないと…!
「イブリン!!待って!!」
背後から王子の声が聞こえて来たが、イブリンは足を止めなかった。
トピトピに薔薇の雫を注入すればイブリンの助手としての役目は終わる。
出来上がったトピトピを王子の手元に届けたら、メイド長にお願いして王子の専属を解いてもらおう。
そして、二度と会わぬのだ。
この危うい想いも消し去ってみせる。
「イブリンーー!!」
悲痛に響く声から、イブリンは必死で逃げる。
お可哀想な王子。
けれど、薔薇の雫が救ってくれるだろう。
可愛らしくやんごとなき身分の奥様が、孤独だった王子の心を満たしてくれるだろう。
そのお手伝いが出来たことは、この上ない喜びだ。
それは、たいした価値のない自分にとっての誇り。
共にすごした日々は一生を彩る思い出。
イブリンにはそれで充分だ。
薔薇のアーチを抜けたイブリンは、息を弾ませながら通路を走る。
温室を出たなら王子は追って来れない。
王子にとって多数の人間が行き交う王宮は危険な場所だ。
自ら放つ薔薇の芳香で多少は緩和されるようになったようだが、未だリハビリ中だと話していた。
イブリンは呼吸を整えながら背後を振り返る。
どうやら、王子はイブリンを追うことを諦めたようだ。
イブリンはホッとして息を吐くと、温室の扉の取っ手を掴み、引いた。
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