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三
しかし、そんな僕も、はじめて怖い思いをした。
山遊びからの帰り道だった。ねこじゃらしを振り回しながら、田圃の切り抜かれたあぜ道を歩いていた時だ。
後ろから、ず、ず、ず、という足音がついて来ていた。はじめこそ、いつものことだ、と気楽に構えていたが、歩を進めるたびに、その足音は大きくなっていった。
山の向こうに日が隠れようとしていた。藍色の空が、東からだんだんに街をうす暗くしてゆく時刻、辺りに人は見当たらない。
不気味なほどに、なまぬるい風が、僕の前髪をなでていった。背筋に走った悪寒に、「これは、良くないものだ」と思い、ついに、走り出した。しかし、左足は痛み、うまく前に進めない。否、それ以上に、走れば走るほど、その足音は大きくなっているような気がした。
息が切れるたびに、ず、ず、ず、ず、と足音が迫ってくる。もう家に着いてもいい頃だと言うのに、未だ、門前は見えて来なかった。履いていた父の草履が脱げても、足の痛みが増しても、僕はふり返ることなく、走っていた。すると、耳元で、足音のものが、低いしゃがれた声で「こっちを見ろ」とつぶやいた。僕は、これにどんな形であれ、応えてはいけない、立ち止まってはいけない。と、ただ黙々と走り続けた。
その時だ。前方から、明かりが近づいてきた。暗闇のなか、そこだけぼんやりと丸く切り取られたように、橙の火に照らされていた。僕は息を切らしながら、ようやく、その明かりの前で、立ち止まることができた。ばあさんが、提灯を点けて、帰りの遅い僕を迎えに来たのだった。
「汗だくじゃないか」
のんきに微笑んだばあさんに、ぐっしょり湿った前髪をかき上げられた。僕はそれに微笑を返して、後ろを振り返ったが、そこには、ただ真っ暗な道がのびているだけだった。ついて来ていた足音も、ばあさんの提灯が灯ると同時に消えていた。
ばあさんは、ぎゅっと僕の手をにぎって歩き出すと、ふふふ、と笑みをこぼした。僕がばあさんを見上げると、ばあさんは、ぞっとするほど奇麗な笑顔で、僕を見下ろした。
「立ち止まっていたら、危なかったね」
ささやかれた言葉に鳥肌が立った。この時、背中にはしった悪寒は、見えもしなかった足音のもののせいではない。
ばあさんは、「いや、良かった、良かった」と、空とぼけてうなずいていた。僕はつないでいた、ばあさんのしわくちゃの手を見ながら、本当にこれは人間のものだろうか、と疑った。
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