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第一章
一
これは、生まれる前の記憶だ。いや、正確に言うと、生まれた後の記憶なのだが、生まれる前の記憶なのだ。
産声を上げる代わりに、大きく息を吸い込んだ。なんて、空気の良くないところなんだ。それに、とてもうるさい。さまざまな音が聞こえる。恐怖におびえ、ざわめく声の集まりが、僕を囲んでいる。体を抱く、影の熱が伝わる。なんて、なまぬるい、いやな温度だろう。
「おい、目を開けてしまったぞ」
「どうすることもできまい」
「こやつ赤裸じゃ。肉体を持っとる」
「殺そう」
「駄目じゃ。わしらが殺されるぞ」
「このまま現世に移そう。ここで、育てたら禍になる」
「嫌じゃ。わしは喰われとうない」
「おい、八枯れが来たぞ」
「八枯れ」と呼ばれた鬼が前に出た。
そいつは、全身青い鬼で、目と角が三つある。黒いうしろ髪は、巻き上げており、つねに風に吹かれているような形をしていた。背が異様に高く、三メートルはあるだろう。うずまき模様が縫いつけられた着物を流し、不敵な笑みを浮かべていた。
一目でわかる。そいつは、ここで一番力の強い化け物だ。そして、このなまぬるい声の連中から、怖がられ、忌み嫌われている。影の群れは、八枯れを見る時だけ、異様に緊張している。肌を通じて、その畏怖が伝わってきた。
八枯れは、気だるそうに頭をかきながら、僕の顔をのぞきこんできた。しばらくじっと見つめてから、大きな口を引き裂いて、笑った。
「わしが喰ってやろう。よこせ」
そいつの長い爪が、僕を包んでいた白い布を引き裂いた。三つの目玉がいやらしく細められる。こいつの口は、生臭い。血と肉の匂いが染みついている。
僕はたまらず、手をのばして、そいつの目玉を一つひっかいた。八枯れは、低い悲鳴を上げて、後ろによろめいた。抱き上げていた影がそれに驚き、僕を地面に放り投げた。
しばらく枯れた土の上を転がったが、赤黒い土の上であおむけになった。よどんだ空が目に入る。藍色の暗い空は、紫の雲におおわれていた。不思議と、なつかしい風景のように思えた。
八枯れは未だ、痛がって、目を押え、辺りを転がりまわっていた。その様があまりにもおかしくて、くすくすと、笑いをもらした。
「この子供、わしらの言葉を理解しとる」
「大変じゃ、八枯れもあの様じゃあ……」
「早く、早く現世に捨ててしまえ」
僕を、おそるおそる抱き上げた影の腕を、八枯れの大きな手のひらがつかんだ。男は、「ひっ」と短い悲鳴を上げて、白い布から手をはなした。それを機に、八枯れは怒りにむきだしになった牙で、僕の左足に噛みついた。
「小僧、喰ってやるからな」
なまぬるい風が吹いた。僕の左足に噛みついたままの八枯れと共に、崖から転がり落ちる。そのまま、闇の中に落ちて行った。八枯れはそれに驚き、あわてて僕の左足を吐き出したが、もう遅かった。
「くそ、わしは、行かぬぞ!人間など、嫌じゃ」
僕は、逃げようとする八枯れの角をつかんだ。共に奈落の底へ、落ちてゆく。悔しそうに顔を歪める八枯れを見つめ、うっすらと笑った。八枯れはその笑みを見て、気味悪そうに顔を歪めた。「嫌な赤子じゃ」と、吐き捨てるように言った。
僕は、八枯れの角を引き寄せ、顔をのぞきこむと、はっきりとした言葉をしゃべった。
「八枯れ、お前はもう僕のものだ。いいね、代わりに左足の血をやったのだ。約束だよ。僕がこのまま生まれたら、お前は生涯、僕の言うことを聞き、僕を守り、僕のために働くんだ。この瘴気の満る地に還るまで、お前は僕の使いだ」
大地に叩きつけられる瞬間、見上げた藍色の空の中央には、不気味なほどに白い満月が昇っていた。最後にそのかがやきを目に焼きつけて、記憶は途絶えている。
そうして、一九八八年、八月八日、午前二時二十二分二十二秒、慈恵医大第三病院分娩室にて、父、坂島雄三と、母、坂島次子の第一子として、僕、坂島赤也は産声を上げた。
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